聖 書:ヤコブ5:13~18

(13)あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。

(14)あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
(15)信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
(16)だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
(17)エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
(18)それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

29日(月)、「3.1節記念式及び故土肥隆一師記念礼拝」に出席するために渡韓しました。「3.1節」とは1919年3月1日に起きた抗日運動です。わが国は1910年から1945年まで35年間に亘って朝鮮を植民地として支配し、七奪(国王、国土、耕地、国語、姓名、国民、生命)の罪を犯しました。私は弔辞を述べる前に謝罪を表明しました。謝罪することに反対する人、謝罪することはもう良いではないか、という人々もいますが、私は被害者の立場に立つ時、自分の良心に従って謝罪を表明することは両国間の真の和解のために必要なことであると理解しています。
本日の中心的メッセージは「祈り」です。祈りは私たちを「苦しみ、病気、罪」などから解放し、「真の解放と癒しと赦し」を与えます。
Ⅰ.信仰の祈り
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない」(Ⅰコリント10:13)とあるように、人生は確かに苦難の連続です。病気の場合は自分の不摂生による場合もあれば、そうでない場合もあります。苦難の意味をどう考え、苦難とどう付き合うかによって人生は大きく変わることは確かです。聖書は「苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい。病んでいる者があるか。・・祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、その人を立ちあがらせて下さる」と、力強く「祈り」の力を示しています。この場合、当事者にも、執り成し者にも求められることは、主は必ず祈りに応えていやして下さると固く信じて祈る、「信仰の祈り」です。
Ⅱ.告白の祈り
病気は、〈気の病とも、病は気から〉とも言われます。つまり、肉体と精神・霊魂は大きく関わっています。「からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている」(Ⅰコリント12:14)のです。からだは自律神経によって全体がコントロールされています。自立神経が失調しますと、からだはバランスを崩してしまいます。同様に神との正しい信頼関係が崩れますと、その影響は肉体にも精神にも霊魂にも及びます。主イエスは中風の者に先に「あなたの罪はゆるされたのだ」(マタイ9:2)と言われ、その後に「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われました。サマリヤの女の場合(ヨハネ4章)も、姦淫を犯した女の場合(同8章)も同様に、まず症状の原因である〈罪の赦し〉を宣言され、次に症状を癒されます。私たちの場合は、まず信仰の祈りを捧げますが、その祈りを通して自らの罪や不信仰を示され、告白へと導かれます。私たちはお互いのために祈りますが、その場合、お互いが罪を告白し合うことによって神に赦され、互いに許し合うことが重要です。そのことを通して更に力強い告白の祈りを捧げる者とされるのです。
Ⅲ.義人の祈り
今回、明星長老教会を訪ねました。この教会はまだ創立40年に満たない歴史の浅い教会ですが、急成長した教会として有名です。20年ほど前には早天祈祷会に3千人が集まっていました。約3年前に旧会堂の隣りに7千人収容の新会堂を建てました。現在早天祈祷会に7千人、礼拝には5万人が集まっています。唯々神の力としか言いようがありません。「義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」義人とは欠陥のない人を意味するのではなく、キリストの血によって義とされた者を指しています。「エリヤは、わたしたちと同じ人間であった」が、神は彼の祈りを聞いて下さったのです。
私たちも罪赦された罪人に過ぎません。しかし、信仰の祈り、告白の祈り、そして義人の祈りを捧げる時に、神は私たちの祈りを聞いて下さり、大いなる神のみわざを現して下さるのです。
新年度を迎えるに際して、荻窪にも船橋にも、神の大いなるみわざを期待して、すべての教会員がこぞって大いに祈る者とさせて頂きたいと願います。