聖 書 Ⅰコリント9章15~26節
(15)しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。
(16)わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。
(17)進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。
(18)それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。
(19)わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
(20)ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
(21)律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
(22)弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
(23)福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
(24)あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
(25)しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
(26)そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
(27)すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
私たちの教会は会堂を移転することが決まり、いよいよ新年度から神様が備えられた新しい場所で新しい人々に福音を伝える働きが始まります。日本では4月は就職、進学や進級などで多くの人が新しい環境に入ります。未知の世界に踏み込む時、人は緊張や様々なストレスを抱え込みますが、同時に新しい世界に対する期待と出会いを体験します。教会が新しい宣教地に踏み出す時も恐れや不安と共に、わたしたちは主にあって希望があります。先月はビジョンを考えるために「この町にはわたしの民がいる」(使徒18:10)をテーマに選びました。今月のテーマは『福音を伝える』です。今日の聖書箇所を、来週ビジョンを考えるグループ会で話し合い教会の目標をしっかりと定めていきたい。
1. ゆだねられた務を果たす
パウロはここで「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。…もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」(16)と告白しています。新共同訳ではわざわいという語句を「不幸なのです」と言い換えています。
皆さんもそうでしょうが、わたしは神様に背を向けていた年月は無論のこと、救われて何年を経てもこの救いの喜びと感謝に勝るものに出合ったことはありません。人生は楽しいことも多少はありましたが、残念ながらどれも長続きはしませんでした。しかし真の神様がどんなお方かを知り、その神様がわたしのために何をしてくださり、さらに救いの事実は永遠に変わらないことを知ってイエス様を受け入れたとき、福音はこの世のどんな喜びにも代えがたい幸いだと思いました。そんな素晴らしい福音を知りながら、みすみす救いを必要としている人たちにきちんと伝えられないなら、クリスチャンになってもある面ではわざわいであり不幸だと言えます。福音を伝えるタイミングと相手を見つけるのはたやすくはありません。自分は口下手だし今は毎日忙しくて相手も自分も時間がないからと消極的になりがちです。しかし「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マル16:15)とイエス様が言われたように、クリスチャンへの「ゆだねられた務」なのです。わたしたちは雄弁でもありませんし、世の人よりも知的に優れてはいませんが、神様はなぜかわたしたちを選んで先に救い福音を宣べ伝えるという大切な働きをゆだねられました。救われていない人はいくら話術が巧みでも知性が勝っていてもできません。神様はわたしたち愚かな者が(Ⅰコリ1:27)が神の栄光を表すと期待をされているのです。自分の力でなく、聖霊の知恵と導きに頼って神に用いていただきましょう。
2. 共に福音にあずかる
19節に自由人と奴隷の対比が出てきます。16世紀に宗教改革を成し遂げたプロテスタントの創始者マルチン・ルターは名著『キリスト者の自由』の中でキリスト信仰の真髄を書き記しています。ルターは聖書に基づき「キリスト者すべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。」としながらも「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」と二つの矛盾した内容が一つになっています。
キリスト者は福音によって罪の奴隷から解放され完全な自由を得ましたが、一方では、なんとかして幾人かを救うためならば誰に対しても、僕となることもあえて辞さないのです。パウロは「弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった」(22)と言い、立場が違う人や異なった考えを持つ人をさばくことなく受容することで、その人との接点を見出そうと努めています。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(23)とあるように、福音は宣べ伝える人自身がその奥深い豊かさを体験するばかりか、福音を信じた人が救いを喜び人生が変わる時、伝えた人も無上の喜びに包まれます。
3. 朽ちない冠を得る
24~27節でパウロはスポーツ選手になぞらえて語ります。この時代コリントでは優勝者に与えられるのは、数日で枯れる月桂樹の冠でした。ですが福音を宣べ伝える者は神様からやがて天において「朽ちない冠」を授かることが約束されています。(25)わたしたちの教会も「目標のはっきりしないような走り方をせず」(26)ゴールとなるビジョンに向かって、短期的にも長期的でもしっかり目標を定めなければなりません。教会を挙げてなんとかして幾人かを救うために。