聖 書:ピリピ4:1~7

(1)だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。
(2)わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。
(3)ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
(4)あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
(5)あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
(6)何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
(7)そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

もう2015年度末だが教会主題の「祈祷」について2回目の話をする。ピリピ人への手紙が開かれてきた。パウロは4章の短い手紙の中で喜びという語を16回用いる。この手紙はエペソ・コロサイ・ピレモンと共に獄中からであり、場所はローマ、時期は紀元後61,62年頃であろう。パウロ自身も、諸教会の心配事もとても喜べる環境ではない。パウロが持つ喜び、書き送った喜びは普通の喜びではない。

Ⅰ.喜びなさい(4節)
パウロは4節で「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」と勧める。喜びなさいは命令形で記され、直接には喜べとなる。後半も同じ用法で、喜べ、喜べと強く命じている。ピリピ教会は喜べない状態にあったのか、喜びを忘れてしまったかである。来週は受難週となるが、イエス様の最後のメッセージの中でヨハネ16:22には「あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」と語られた。十字架を目前にしてイエス様は不安がる弟子たちに喜びを残された。人々の罪も悪も、十字架の死でも取り去られないものであった。喜びを支えるものは5節「寛容」6節「感謝」である。神様につながっている喜びを持たせて頂こう。

Ⅱ.思い煩うな(6節)
6節には「何事も思い煩ってはならない」とある。喜びを止めるものは思い煩いである。この言葉は心を配るという意味もある。心配は良い面では気遣いをする、悪い面では心塞がれてしまうことになる。イエス様の有名な種まきのたとえ話で、イバラの地の種は芽を出すが、イバラの方が早く育って作物は育たなかった。イバラとは世の心づかい、富の惑わしとイエス様は言われた。家族や隣人の心配は良いが、この世との関わりで神様が失われてはならない。さらには私たちが心配しなくとも、神様が心配してくださる。イエス様の山上の説教中、マタイ6章は空の鳥、野の花を見よと示され、あすのことを思いわずらうなと語られた。神の国と神の義を求める中心線、基準線が確かならぶれること、ずれることはない。

Ⅲ.神様に申し上げる(6節)
6節は続いて「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」とある。神様に祈れとの勧めであるが、事ごとにである。良い時も、悪い時も、喜びの時も、苦しい時も…どんな時でも祈ることである。人は一般に言って好調の時には神様を忘れ、不調の時には神様を恨みやすいのではないか。どんな時にも祈り、願い、求め続けていくことが大切なのである。その祈りは人知をはるかに越えた神様の平安へと私たちを導く。人知は役に立つが全てを見通すことはできない。人が持つ不安や恐れは人を間違った方へと進めてしまう。神様に祈って与えられる平安が私たちを守る。

この箇所は対象があなたがたである。個人ではなく集まって祈る祈りである。 私たちも福音を託されている者として祈りを教えていただくこと、ひざまずくことから始めていこう。