聖 書:コリント人への第二の手紙5章16~19節
5:16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
5:19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

本日は中田羽後師、森山諭師の召天記念聖日です。中田師は1974年7月14日78才、森山師は1996年7月22日88才で召天されました。中田師の遺産は「教会音楽」、森山師の遺産は「福音宣教」です。両師を記念する意義は、両師の遺産を再確認し、継承することにあります。「メサイア公演」と「宣教への情熱」は継承すべき最大の遺産です。前者は午後の記念コンサート、後者は午前の礼拝という形で両師を記念することにいたします。

Ⅰ.神との和解の前提
「和解」とは、「仲直り」することです。有史以来、人間が存在する所には争いが絶えず、戦争による大量殺人にまで拡大されるのです。聖書が「神との和解」を勧める前提には、神と人間との間に争いが存在することを意味しています。聖書は「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多い」(ピリピ3: 18)、「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか」(ヤコブ4:4)等々、アダムとエバの堕落以降、人類は神に敵対して歩んできたのです。

Ⅱ.神との和解の方法
「和解」とは「当事者が互いに譲歩して争いをやめること」でもあります。神は人間の敵対に対して、「すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐して」(?ペテロ3:9)こられました。しかし神からの譲歩はあっても、人間側からの譲歩は期待できませんでした。そこで「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしない」(18-19)という方法を通して「神との和解」を成立させて下さったのです。聖書は「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった」(エペソ2:16)、「十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さった」(コロサイ1:20)のです。

Ⅲ.神との和解の使命
人間との間に「和解」を成立された神は、「和解の務をわたしたちに授け・・わたしたちに和解の福音をゆだね」(18-19)て下さいました。聖書は「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。」(ヘブル12:14)、「兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、・・まず行ってその兄弟と和解し」(マタイ5:23-24)と教えています。神と和解した者は、次に人間関係における和解が必要となります。更に私たちは「自分を許せない」というような気持ちを抱くこともあります。その場合、自分との和解が必要となります。

和解とは、人と仲直りするであり、人を許し、また自分も許されることにもつながる状態です。「ああ神様、私が間違っている時には、どうか簡単に変われる者にして下さい。そして、私が正しい時には、他の人が近寄りがたい者とならないよう助けて下さい。」(クエーカー教徒、ステファン・グレレ)