聖 書:イザヤ書 第41章8~16節
41:8 しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、
41:9 わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。
41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。
41:15 見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。あなたは山を打って、これを粉々にし、丘をもみがらのようにする。
41:16 あなたがあおげば風はこれを巻き去り、つむじ風がこれを吹き散らす。あなたは主によって喜びイスラエルの聖者によって誇る。
(序)イザヤ書41章より、主が、その力ある御手をもって宣教に遣わして下さることを共に見てまいりたいと思います。
1、選んで召して下さった主のご主権のゆえに
私たちの「宣教の動力」は、選んで召して下さった主のご真実のゆえです。9節に、「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と神御自身の確かな選びについて語られています。私たちにとって、「主のご主権」の中にあって、自由に用いられることこそ幸いです。 私たちは、この朝、御心のまま自由自在に用いられやすい、主の手にある粘土としていただきましょう(イザヤ64章8節)。
2.贖い主なる主の御愛に触れたゆえに
「宣教の原動力」は、第二に、贖い主なる主の御愛に触れたゆえです。イザヤ書41章に、三度、「恐れてはならない。…わたしはあなたを助ける」とあり、14節に、「あなたをあがなう者は、イスラエルの聖者である」とあります。「イスラエルの聖者」という表現は、イザヤ独得の表現であり、「神が一切のものを超越し、支配し、歴史を司っておられる絶対者なる方であり、イスラエルと諸国民とを裁き、また救われる方である」という意味を持っています。そのお方が、「あがなう者である」というのです。
3、勝利の右の手をもって支えて下さるゆえに
第三に、私たちの「宣教の動力」は、主が、勝利の右の手をもって支えて下さるゆえにです。イザヤ書41章10節に、「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える」と言われます。すべて完了形で書かれています。約束なんですが。既に神様はその様にして下さっているんだと受け取っている訳です。しかも、これに、強意の言葉が付け加えられ、主が、身を乗り出し、全力を尽くして支えられるということを表しています。「勝利の右の手」の「勝利」と訳された言葉は、基本的に「義」という意味ですが、「恵み」「救い」「勝利」と言った意味も含んでいます。主の御手は、「義の右の手」であると共に、「恵みの御手」、「救いの御手」、「勝利の右の手」なのです。
宣教の御業は、私の働きではなく、「神様の宣教」です。御言葉を通して、御霊が働いてくださって、人々は救われるのです。主が、その勝利ある右の手で支えて下さるゆえに、私たちは、主の栄光を見る者としていただけるのです。さらに、イザヤ書41章15~16節には、主が、私たちを、鋭く、新しくし、主の栄光のみ業を見ることの出来る者としてくださるとの約束があります。
(結論)御教会のこの年の標語は、「継承と発展」と伺いました。主は、勝利の右の手をもって、皆様を支え、信仰の継承、そして宣教の業のために、豊かに用いようとしておられます。信じてお従い致しましょう。