聖書:マタイによる福音書 第5章1-10節

5:1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

年末年始の代表的国民的行事といえば欧米ではクリスマス、わが国では初詣。その代表格は、全国至る所に存在している「七福神」でしょう。総じて商売繁盛、除災招福、家庭円満、立身出世、延命長寿などがあります。
Ⅰ.八福の教えは天国において通用する。
「七福神」と「八福の教え」の「幸い観」の違いは前者は世的であり、後者は天的であると言えます。「心の貧しい人」とは原意は「霊において貧しい人」であって、天国、神、イエス、永遠・・のことをもっと知りたい、関わりたい、という霊的渇きを意味しています。
そのような人には「天国は彼らのものである」と言う事実が宣言されています。霊的渇きは自分や他者に対する悲しみや憐れみを生み出し、「悲しんでいる人」はその結果として慰めを得るようになります。「柔和な人」とは人生の厳しい経験から生み出されるもので、神の国を嗣ぐ者とされます。「義に飢えかわく」とは、霊的生命の保持のために神の言葉を慕い求めることを意味しています。
Ⅱ.八福の教えは信仰者の霊性に関わる。
人間は「霊と心とからだ」(Ⅰテサロニケ5:23)から成り立っています。「心とからだ」は「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)のです。神と交わるのは「霊」の部分です。新生の経験のない人は霊的機能が不能になっていますが、
キリスト者はその機能が回復されています。「八福の教え」は天国に入るための条件ではなく、結果として歩むべき姿が示されています。「あわれみ深い人たち」とは、「人の痛みが分かる人」(本田哲郎)であり、他者の不幸に心を動かされることを意味します。彼らはあわれみを受けるのです。
「心の清い人たち」とは、キリストの血によって清くされた人のことです。「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。」(ローマ12:17)。「彼らは神を見る」のです。「平和をつくり出す人たち」とは、平和を追い求める人のことです。彼らは神の子と呼ばれます。
「義のために迫害されてきた人たち」とは、「死に至るまで忠実」(黙示録2:10)に信仰を守り通した人を意味しています。「天国は彼らのもの」なのです。八福の教えは天的なものであって、私たちの霊性と深く関わっています。
Ⅲ.八福の教えはイエスの生涯に成就している。
イエスは「わたしは柔和で心のへりくだった者」(マタイ11:29)であり、罪人、弱者、障がい者らの友となり、あわれみを彼らに施されました。自ら清い生涯を送られ、神と罪人の仲保者となり、その血によって信じる者を義とし、神との平和を実現されました。イエスは究極の迫害として十字架にかかり、父との断絶を味わい、「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)、「霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)の言葉をもって地上の生涯を終えられました。イザヤは「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。~彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(53:3~5)は預言しています。「八福の教え」は利己的な幸福観ではなく、天国に通じる幸福観です。従って理解が難しいことは当然のことです。キリスト者の生涯は「天国をゴール」とするものです。しっかりと目的地に目を据え、目先のことに左右されることなく、宇宙大のビジョンを抱いて、日々歩む者とさせて頂きたいものです。│