聖 書:Ⅱテモテ1:1~18

(1)わたしたちの救主なる神と、わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命によるキリスト・イエスの使徒パウロから、
(2)信仰によるわたしの真実な子テモテへ。父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。
(3)わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、
(4)作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。
(5)わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。
(6)ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、
(7)律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。
(8)わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
(9)すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
(10)不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
(11)これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。
(12)わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。
(13)わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。
(14)その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。
(15)「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
(16)しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。

(17)世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。
(18)わたしの子テモテよ。以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉に従って、この命令を与える。あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。

 

クリスマス・年末・年始の間は特別であったが、2018年度教標語の「奉仕・献身」から、パウロの記した牧会書簡であるテモテへの手紙を開いてきた。テモテ第二の手紙に入る。

Ⅰ.主にあるつながり
この手紙はパウロの最後の手紙となったことは良く知られている。御国に帰る日を意識しているパウロが同労者、後継者のテモテに働きを託していく思い、アドバイス、忠告を記す。パウロは特にテモテに対して親密さを覚えていた。第二回伝道旅行の途次、パウロはルステラでテモテを同行に加える。ギリシャ人を父とし、母はユダヤ人のユニケ、祖母ロイスという家庭に生まれた。パウロが地中海世界にイエス様の福音を伝えるために、ギリシャ文化とユダヤ文化に通じていたテモテほど適任者はいなかった。実利上のこと以上に、パウロに従って激しい伝道と異文化での初期の教会形成を共にしたきずなの深さを覚える。パウロは理知的であり、情にも通じる人物であった。両面の大切さがある。

Ⅱ.主による福音
ユダヤ人の多くはイエス様を信じなかったが、テモテはイエス様による救いに与った。テモテの「わざ」9節によるものではなかった。「計画」・「恵み」9節によるものであった。人間の働きや評価ではなく、神様の側からの選びと召しである。イエス様がこの世に来られたという神様の側からの介入によって恵みの福音は明らかにされた。イエス様ご自身の死と引き換えに、私たちが神様の命に与る道が開かれた。私たちの側の何かによるのではなく、神様の側からの愛、慈しみによってなされたからこそ福音である。自分の力で得るものであれば、恵みでも福音でもない。知性も意志も人より優れていたパウロも、人格や心は人より深いものを持っていたテモテも救いに与り、召しを受けたのはその故ではない。全ての人を救い、生かすことができるからこそ福音である。

Ⅲ.主からの力
テモテはやや線が細く弱い部分があったことだろう。7節の励ましがある「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」。私も何回この言葉に力を受けたであろう。聖霊は恐れ、不安を除き、臆する思いを取り除く。聖霊は力を与える(使徒1:8)。聖霊は無私の愛を与える。聖霊は自制の力を与える。さらに、聖霊によって、苦しみを乗り越え
(8節)、聖霊によって守られることができる(14節)。パウロは御国を意識しながら、テモテが神様の職務を全うするために切なる思いを持って祈っている。
13・14節で述べているように、基準となるのは「信仰」「愛」「健全な言葉(教え)」である。聖霊がそれらを守る力を持っていることを語っている。聖霊こそが私たちの内に神様に相応しい徳性を形づくって下さる(ガラテヤ5:22・23)。

神様は私たちの内に動的に働かれ、私たちを揺り動かす。破壊や暴力の力ではない。自らを生かし、人を生かしていく力である。見せかけの強さではなく本当の強さである。聖霊の力によって前進していこう。