聖 書:詩篇121:1~8
(1)わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
(2)わが助けは、天と地を造られた主から来る。
(3)主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
(4)見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
(5)主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
(6)昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
(7)主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
(8)主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。
新型コロナウイルス感染拡大によって先週からネット礼拝となった。思いは多々あるが、何物にも揺るがせられない信仰を持つことが最重要である。私たちが礼拝を中心にする、教会に基礎を置く、聖徒の交わりを大切にすることが大切である。1日も早く活動が回復することを願う。
Ⅰ.山に向かって目を向ける
多くの聖徒に愛されている有名な詩篇が開かれてきた。Cf.前任教会での老姉妹を思い出す。苦しい時に山に向かって目を上げ神様に祈られていた証し。… 詩篇は、内容によって整理されている。121篇は120篇~134篇「都もうでの歌」15篇の一つである。都とはシオンの都、聖なる都エルサレムである。都もうでの歌とは、エルサレム神殿に礼拝に向かう巡礼者の歌である。エルサレムはイスラルの中央山地の中腹、台地の上にある。東西南北から道が通じる要衝にあるが、北側斜面を降ってきても、それ以外の坂道を登ってきても見えそうで見えない。エルサレムを目指す巡礼者が礼拝を慕う、礼拝を待ち望む思いは、今この時の私たちと共通している。礼拝は神の民の集まりである私たちが、個人のデボーションではなく、部分的な各会・各部ではなく、会衆全体で神様と出会う時である。
Ⅱ.山を越えた御方に目を向ける
礼拝とは何か。①礼拝は神様が聖なる臨在をもって臨まれる時である。モーセのシナイ山以来、幕屋、神殿、会堂から教会に。②礼拝は神様がみ言を語られる時である。旧約の預言者、新約のイエス様、使徒たちから説教者に。③礼拝は神様が教会を育む時である。教会は建物ではなく信仰者にある。礼拝によって健康と成長を持つ。④礼拝は教会が神様に栄光を帰する時である。唯一の神様の栄光をほめたたえる。⑤礼拝は教会が一体として神様にひれ伏し拝する時である。神の家族、キリストのからだ、霊的なイスラエルは一つの礼拝によって成長する。⑥礼拝は教会がこの世のために祈る時である。真の神様を受け止める者のみが真の礼拝をささげうる。私たちは礼拝の大切さ、重みを、聖書から、体験から知っている。礼拝を第一にし、心厳かにこの時を持とう。
Ⅲ.全てを越えた御方に守られる
真の神様への礼拝が正しくささげられる時に神様は応えてくださる。天地を創造された神様の助けがある(2節)。神様は私たちをまどろむことなくどんな時も守ってくださる御方である(3節)。神様は「右の手をおおう」(5節)とあるが、右の手は神様の大能、力、栄光、勝利を表している。それを私たちに分かちてくださる。当時の人々は太陽や月に特別な力を感じていたが、万物・自然の力からも守られる御方である(6節)。神様はご自分に向かって目を上げ、礼拝を慕い求める者に、どんな中においても守りと祝福を約束されている。
私たちは今どこに立っているのか。私たちの身体は、床の上に、地面の上に立つ。私たちの心と魂はこの御言の上に立つ。大きな山が不動である以上に、神様の守りと祝福は動かない、離れることはない。礼拝を慕い望む私たちの願いを主は聞き届けてくださるまで待ち望んでいこう。