聖 書:出エジプト12:21~32

12:21そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。 12:22また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。 12:23主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。 12:24あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。 12:25あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。 12:26もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、 12:27あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。
12:28イスラエルの人々は行ってそのようにした。すなわち主がモーセとアロンに命じられたようにした。
12:29夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。 12:30それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。 12:31そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。 12:32あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。

ネット礼拝も3回目となった。先週の礼拝でお話したように、神の民は一つに集まって礼拝をささげることに意義がある。現状は致し方ないが、これはあくまでも特別な措置である。1日も早く元通りに回復することを願う。

Ⅰ.神の民のための過越し
コロナウイルス拡大の中で、私の心に繰り返し聖書中の「過越し」が浮かんでくる。ヨセフの時代から400年、エジプトからイスラエルの民はカナンの地へと帰る。神様はモーセを立て、力強い御手をもって導かれた。しかしパロがイスラエルの民を去らせるまでは10の災いが下されるほど忍耐と時間が必要だった。過越しとは、10番目の災いであるエジプトの全ての初子が撃たれるという恐ろしい裁きを指す。英語のPassoverが表しているように、災いはイスラエルの家庭を過越していった。これ以前の9つの災い(ナイルが血に変わる、かえる、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、うみの出るはれもの、雷・雹、いなご、濃いくらやみ)は、何れもイスラエルの民に近づかなかった。過越しの守りは最後の災いだけではなく、10の災い全てに当てはまる。今の私たちも神様はこの災いを過越させてくださる。私たちに忍耐と時間が必要であっても、決して、病や天変地異に恐れ惑うことはない。

Ⅱ.血潮による過越し
10番目の災いである過越しには1歳の傷のない雄の小羊(5節)の血が流されなければならなかった。「血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。」(レビ記17:11)とある。小羊が殺され、ヒソプでかもいと入口の柱に血が塗られたことで、その一家はあがなわれ、死を免れた。「あがなう」という語は普段使わないが、聖書では最重要語の一つである。あがなうの第一の意味は代価を払って買い戻すことである。聖書の社会では奴隷、捕虜が買い戻されて自由になることを指した。さらに聖書が語るあがないとは私たちに罪があり、裁かれ死に至る者であるが、救われ命を得ることである。過越しのあがないには傷のない小羊が必要だった。私たちの罪のあがないはイエス様が十字架で流された血潮であり、ささげられた命である(へブル9:11・12)。毎年記念とされる動物の血ではない、同じ罪人の人間の血でもない、この世の価値で測れない神の独子イエス様の血潮によって全ての人の罪はあがなわれた。

Ⅲ.過越しの恵みに与って
出エジプトの過越しでは、かもいと入口に小羊の血が塗られてあがなわれている証しとされた。私たちのあがないはイエス様の十字架の血潮だから、イエス様の血潮を身に帯びることが、あがなわれた証しである。続くへブル9:13-14にあるようにイエス様の血潮によって良心がきよめられる。イエス様の血潮は罪の赦しだけではなく、心を造り変えて下さる。神様に仕えることを喜びとする者になることができる。

私たちは神の民として神様は災いを過越させてくださる。過越しはあがないであり、今私たちはイエス様の完全なあがないに与っている。イエス様の血潮を身に受けてきよい者として永遠に至る神様の道をたどって行こう。