聖書箇所:ローマ3:9~22 御国が近づいている⑩
3:9 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。
3:12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
3:13 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
3:14 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
3:19 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
聖書は神様が永遠の中で全てを治められ、世界には始まりと終わりがあることが示されている。イエス様が再び来られ世界は終末へと向かうが、イエス様のお出でをより近く感じる。終末に向けてヨハネ黙示録22:11でイエス様は「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」と語られている。不正や汚れが増す時代に私たちはどう生きるかを考えよう。
Ⅰ.人間は罪に沈んでいる
ローマ人への手紙は1:1から1:17までは前書きになる。1:18から3:20までは人間の罪が有りのままに記され読んでいて気持ちは暗くなる。罪のリストが1:29~31に出てくるが人間とはそのようなもの、互いを傷つけあう存在だと思う。聖書の世界の区分で、神様が律法を通して正しさを教えられたユダヤ人も、律法を知らない他の民族でも同じく罪に沈んでしまっている。その結論のように今日の聖書箇所の10節「義人はいない。一人もいない。」と断じられている。人間は神様から与えられた尊いものを持ちながら、自分で自分を救い得る力はない。立派な素晴らしい人はあるが、神様から離れていては誰も神様の前に立ちうる人はいない。
Ⅱ.神様は義を備えておられる
今日の聖書箇所3:21は「しかし今や、」で始まる。3:20と3:21の間には内容によって明確な区分がある。20節までが人間の罪、21節からが神様の義が主題となる。義とは正しさであるが神様が正しい御方であることは言うまでもない。ここで語られる神様の義は、神様と人間の関係が正しくつながっている状態、真直ぐな状態のことを指している。先に話したように人間は罪に沈んでいて神様との正しい関係に入れない。22節には「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」とある。イエス様が私の罪をあがなうために十字架に架かって救い主となられた。このことを信じれば義とされ、神様との関係が真直ぐにされる。イエス様の十字架によって神様とつながる道が開かれる。
Ⅲ.世界は終末へと向かう
最初に神様はこの時代に悪や不正を許しておられる。何故、神様が介入して止めさせたり正されたりしないのかと疑問は感じる。マタイ13:24~30でイエス様は天の御国を毒麦のたとえで語られた。良い麦の畑に敵が毒麦をまいた。収穫までどちらか区別がつかない。収穫の時に良い麦と毒麦が選別されて毒麦は焼かれてしまう。毒麦のたとえは良いもの、悪いものの判別が最後までつかないと教えられる。麦の良し悪しについては主人が責任を持っており、終末の裁きは神様が行われることになる。どうしてこんな悲惨が起こるのかと私たちは裁きを求めるが、裁かれる神様に委ねる。世界も周囲もどうなのかと問うが、私たち自身は神様によって義に生きる道を進もう。
私たちはイエス様の十字架によって義とされた。暗闇が深まる時代でも光の内を歩み、光を世に示そう。