聖書箇所:マタイ25:34-46 交わりと宣教③
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
25:39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
25:41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
25:42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
25:43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
25:44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
今年の標語「私たちが互いに愛することにより、外へと向かう力をいただく」からの3回目、まず前半の互いに愛することから語っている。今日の箇所、「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(40節)はマザー・テレサの生涯でも、「靴屋のマルチン」の最後にも語られる。人に尽くす愛を表している。
Ⅰ.神様からの評価がある
今日の箇所マタイ25章はイエス様が天の御国について、終末との関りで話されている。その中で「最後の審判」についての記事である(黙示録20:12~15参照)。新天新地、永遠の御国が完成する前に全ての人は審判者であるイエス様の前に立つ。ミケランジェロがバチカンのシスティーナ礼拝堂の祭壇画に描いた。イエス様を真中に左側に母マリア、右側に天国と地獄の鍵を持つペテロ、左側は天国に昇る人たち、右側は地獄に降る人たち …審判を受けるとは恐ろしいと感じられるが、その時に私たちは評価を受ける。聖書は「御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ3:18)と言う。イエス様の救いに与った私たちは、審判の日にも全き救いによって守られている。主の恵み、あわれみによって、恐れずに御前に出ることができる。
Ⅱ.神様からの評価の基準
これはイエス様のたとえ話であるが、どのような点で審判を受けるのだろうか。王はイエス様、わたしの父は神様、あなたがたは全ての人になる。王が空腹の時に食べさせたか、渇いていた時に飲ませたか、旅人の時に宿を貸したか、裸の時に着せたのか、病気や牢にいる時に見舞ったかと問われる。評価を受けた人も、受けなかった人も何時のことか分からないと言う。ここで問われるのは大きなことではなく小さなこと、特別なことではなく普通のことである。また、善い行いをイエス様にしたのか、私の兄弟(クリスチャン)、小さい者(全ての人)にしたのか分からない。誰と言えないとすれば、誰に対しても、どんな時でも、どんな場合でも善き行いをすべきである。何れにしても私たちが忘れている全ての行いを神様は覚えておられ、公正な評価をなさる。
Ⅲ.神様からの祝福
善い行いの背後のもの、動力になるのは利己心ではなく、利他心の愛である。愛は言葉だけのもの、頭の中の思想ではない。行いが伴い実体がある。行いの信仰をヤコブの手紙は記すが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(ヤコブ2:8)をヤコブは引用する。イエス様が最も大切とされた2つの戒め、全てで神様を愛すること、また隣人を愛すること(マタイ22:36~40)の後半である。隣人を愛することをヤコブ2章では服がない、食事に事欠く兄弟姉妹に、安心しなさい、温まりなさい、満腹まで食べなさいと言うだけで何になるのかと問うている。愛するとは愛する行為を選び取って、神様の力をいただき実行していくことである。神様の前に誠実に生きる時に永遠に至る祝福に導かれていく。
私たちの交わりの中に神様の愛が全うされていく(ヨハネ第一4:12)。教会を力付け、励まし、外へと向かわせる。