創世記22:9~18

22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。
22:15 主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
22:17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

今日は敬老祝福礼拝を迎え私たちの人生・信仰の先輩方のために祈る。WHOでは65歳以上が高齢者、日本では65歳以上が前期高齢者となる。定義の上では、私も後3年で新入りとなる。何時も人生と信仰の先輩方を覚えて祝福と守りをお祈りしている。

Ⅰ.アブラハムはあらゆる者の父
今日はアブラハムから語る。アブラハムからイサク、イサクからヤコブ、ヤコブから12人の子らが生まれた。アブラハムはイスラエル民族の父である。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6)。義とされたと聖書の中で初めて出てくる。アブラハムは信仰の父である。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」(創世記12:2)。アブラハムは祝福の基、祝福の父である。私たちが神様を信じることは、アブラハムの信仰に倣うことであり、「アブラハムは、私たちすべての者の父です。」(ローマ4:16)。遠い時代、遠い国のアブラハムと私たちはつながっている。

Ⅱ.アブラハムのあらゆる経験
アブラハムを振り返る東方のカルデアのウルを出発し、途中のハランを出たのが75歳、カナンの地に到着し、その後の紆余曲折、イサクが生まれたのが100歳であった。今日の聖書箇所、イサクをささげるというモリヤの山の出来事は恐らく110歳頃の話である。「これらの出来事の後」(1節)とわずか数字だが、カナンを目指した75歳から、この時点の110歳までの35年間を指す。聖書の記事からも何と多くの出来事と労苦があっただろう。高齢の皆様方の来し方も一言ではとてもということである。アブラハムは妻のことを2回も偽り失敗し、甥のロトを救うために戦争に参加し、子どもが生まれないことで人間的な手段に頼り失敗し、甥のロトの転落を見る痛みもあった。何よりも神様の約束をずっと忍耐し、待ち望むという体験をした。
神様の最初の祝福の約束(創世記12:1~4)から25年、100歳になってイサクが生まれ穏やかな日々が訪れた。アブラハムの最大の試練はその後、今日の箇所になる。ヨブ記のサタンは悪いものを引き出そうとして試みる。神様はなおも良いものを引き出そうとして試みられる。神様は信仰の成長を願い続けておられる。

Ⅲ.アブラハムをはるかに越えて
私たちはこの箇所に疑問を感じる。神様は愛であり、神様は聖であり、神様は義である。イサクをささげよとは神様のご本質とは違うと思える。神様がイサクの命を求められたのではないことは最後に明らかになる。神様が問われたのはアブラハムにとって最も大切なものは何か、あなたは私に従うのかであった。アブラハムの苦しみは想像できない大きさであっただろう。すぐさま神様に従い、つぶやかず、疑わずモリヤの山に向かう。イサクがささげられようとする寸前に神様は止められた。神様はアブラハムの信仰「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、」(ローマ4:18)を見られて満足された。
神様はイサクを殺されることは無かった。モリヤの山はエルサレムに当たると言われている。イスラム教の伝承で岩のドームがその場所になる。やがて、独り子をささげるという考えられない行為を神様はこのエルサレムでなされた。イエス様のあがないによって、私たちの救いの業が成し遂げられた。
私たちはアブラハムの信仰に届かないが、倣う者となり、アブラハムを信仰の父と呼べる(ローマ4:16)。