聖書各巻緒論55・パウロ書簡11
聖書箇所:テモテ第二2:8~15
2:8 イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。
2:9 この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。
2:10 ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。
2:11 次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。
2:12 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。
2:13 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」
2:14 これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。
2:15 あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。
11月最後の聖日礼拝となり、次週からアドベント礼拝になる。突然冬がやって来たかのように感じる。聖書各巻を語っているが、前回のテモテ第一、今回のテモテ第二、テトスへの手紙は牧会の手紙と呼ばれる。牧会者であるテモテ・テトス宛てに教会の働き、牧会者としてのあり方を伝え、励ましている。4:6以下の言葉からパウロの最後の手紙と言われる。今日の聖書箇所から見ていこう。
Ⅰ.キリストを心に留める
愛弟子であるテモテに対する勧めが記されている。「イエス・キリストのことを心に留めていなさい。」(8節)は神様の働き人として当然のことだが、絶対に欠かせないことである。そのイエス・キリストは「ダビデの子孫として生まれ」とある。ひと月後にはクリスマスを迎えイエス様の御降誕を崇める。イエス様は人としてこの世に生まれられたことを強調している。人としての苦労、困難を味わい、神様の働きに当たられた。
現在、パウロも獄につながれて苦闘している。テモテの苦労を覚えつつ、イエス様も、パウロ自身も苦闘しているという励ましを語っている。自分が苦労もせず安泰でいるのではなく、同じ苦闘を続けているところに説得性がある。
Ⅱ.キリストをたたえる
11節から13節のカッコ内は当時の賛美歌であったと言われる。4節からなっており、キリストと共に死ぬならば私たちは生きる、キリストと共に耐え忍ぶならば私たちは王となる、キリストを否むなら私たちはキリストから否まれる、たとえ私たちが不真実でもキリストは常に真実であると歌われている。
この賛美歌の前後に真実、真理という言葉が出てくるようにキリストの真実がこの賛美の主題である。Cf.今この時は何が真実なのかが見えづらい時代である。様々な面で社会は進歩したが80年前と変わらない世界のように見える。ポピュリズム、デマゴーグ、ファシズム、利己主義、排他主義がはびころうとしている。その中で流されることなく真理を見出すことが大切。… 私たちは真実に生きたいと願っているが、不真実さを持つかも知れない。私たちが信じるイエス様は真実以外の何者でもない。イエス様の真実の中に私たちは守られている、保たれている、生かされている「私たちのために、とりなしていてくださる」(ローマ8:34)。
Ⅲ.キリストを表す働き人
パウロは言う。イエス様もパウロも、神様のために苦闘している。イエス様は不真実な私たちのためにも真実を尽くしてとりなしてくださる。テモテに「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」(15節)とパウロは語る。戦いは多くあるが、神様の前に全力を尽くして従おうと勧めている。「みことばをまっすぐに説き明かす」という説教に対する姿勢、「自分を神に献げる」という奉仕に対する姿勢である。人間ができることには限りがあるが、説教も奉仕もできる最善をささげて主に委ね、心安んじていたい。そこに主が働かれる信仰に立つ。
パウロ、テモテという遠い時代の立派な神の人の話と受け止められやすい。私たちもそれぞれに神様に認められ、働き人として期待されている。私たち一人一人も主に献げていくものとなろう。