聖書箇所:イザヤ42:1~9
42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
42:2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
42:3 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。
42:4 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」
42:5 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。
42:6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。
42:7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。
42:9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」
本年もアドベント・待降節を迎えた。主の御降誕を日々覚えて恵みを数えましょう。今日はイエス様がお生まれになる以前の預言の言葉から見て行こう。イザヤはイエス様誕生の700年前の預言者だが神様から聖書全体、救いの歴史全体のパノラマを見せられた。私たちもイザヤ書全体から聖書全体の救いを見ることができる。
Ⅰ.主のしもべの歌
内容の豊かなイザヤ書だが、大事な主題の一つに「主のしもべ」がある。主のしもべが取り上げられているのは42:1-4、49:1-6、50:4-9、52:13-53:12である。主のしもべが誰であるのかは様々に言われる。伝統的にはメシア・救い主、イエス様と受け止められてきた。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。…」(1節)。この言葉は、イエス様が神様の福音を伝えられる直前にヨルダン川で洗礼を受けられた時の神様の言葉、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:22他)である。神様が語られた通りに、イザヤ書の「主のしもべ」はイエス様である。
Ⅱ.主のしもべの働き
救い主イエス様は神様が選び、召された。神様はその働きの力のために「彼の上に霊を授け」(1節)とある。イエス様のヨルダン川での洗礼の後に聖霊が鳩のような形をして降ったと記されている。イエス様も神様の働きの前に聖霊が臨む、満たされる必要があったのであれば、私たちは聖霊なくして神様の働きに与れない。
イエス様の働きの内容は「さばき」(1,3,4節)を行われる。口語訳では「道を示す」と訳されていた。6節に神様の義が示され、7節では囚われ人の解放が告げられることからも裁きがより相応しい。私たちもイエス様によって罪から解放された「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)者である。
イエス様の働きの対象は健康な人ではなく病人、正しい人ではなく罪人(ルカ5:33)と言われた。それは傷んだ葦、くすぶる灯心(3節)である。イエス様は弱さにある者、痛んでいる者にこそ近づかれる御方であり、包み、励まし、力を与え、強めてくださる。
イエス様は神様でありながら、私たちのしもべとして仕えてくださるために来てくださった。
Ⅲ.主のしもべの来臨
「初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。」(9節)とある。イザヤの時代の初めのことはイザヤや他の預言者たちに語られたことの実現であった。新しいことは救い主イエス様の誕生になる。
私たちにとって初めのことは、イエス様の誕生でそれは2千年前にすでに起こった。新しいことはイエス様が再び来られることである。それはこれからのことであるが、「それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」(9節)とある。神様の言葉がどれほど確かであるかは聖書全体を知れば知るほど確かである。私たちは2千年前のイエス様の降誕を覚えつつ、再び来てくださるイエス様を待ち望もう。その日は私たちの救いの完成につながっている。神様の栄光、栄誉が表されていく。
私たちのしもべとしてお出でくださったイエス様を覚えつつ、再びお出でくださる日を待ち望もう。私たちも主の救いに与った者であり、主のしもべとして、神様の働きに仕えていこう。