聖日礼拝説教要旨‘25.1.26
聖書各巻緒論56・パウロ書簡12

聖書箇所:テトス2:11~15

2:11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
2:12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
2:15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

説教テーマの一つ、聖書各巻も2025年最初である。各巻1回づつでもなかなか進まないが、今日を終えると後10回になる。牧会書簡のテモテ第一、第二に続いて、テトスへの手紙である。テモテと同じくパウロの愛弟子「真のわが子テトス」(1:4)。テトスはクレタ島の牧師であった(1:5)。地中海にある温暖な気候のクレタ島はのんびりしていただろうが、熱心さには欠けていたようである。今朝の箇所は救いの基本と言うべき内容である。少し緩みがちなクレタの信仰者もここに立っていてほしというパウロの祈り、願いである。

Ⅰ.主の救いの恵み
11節「すべての人に救いをもたらす神の恵み」とある。「恵み」は聖書の特別な言葉の一つである。罪と汚れにまみれた受ける価値のないものに与えられる。全ての人に開かれているものである「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23・24)。贖いの代価はイエス様が十字架で支払ってくださった。私たちは何の代償も必要がない無代価のものである「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(へブル9:11・12)。永遠の贖いの中に私たちは生かされる。Cf.モーセは姉ミリアムの機転で母の膝で育ち、乳離れしてエジプトの王宮に迎えられた。へブル人の小屋から壮麗な王宮に移ったのは大きな驚きだっただろう。私たちが神様の救いに与り、神の子とされるのは比べられない次元の恵みである。
神様がイエス様を通して備えてくださった救いは「恵み」そのものである。

Ⅱ.主を待ち望む
私たちは神様の恵みによって救いに与った。神様の希望に生きるものとなった「祝福に満ちた望み、…イエス・キリストの栄光ある現われを待ち望む」(13節)。イエス様が再び来られることを待ち望む希望である。この世が大切にしているものは多くある。それらは真善美にかなっている価値あるものもある。しかし、この世のどんな素晴らしいものも永遠に至るものはない。私たちが救いに与っているのは永遠の希望である。
永遠の希望に生きるのなら、この世の価値観とは違う価値観に生きる。そのことは「私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」(12節)とある。この世と離れて生きるのではなく、この世にあって神様の愛、義、聖を表す生き方である。Cf.M.ルターは神様の御心を妨げる力を3つ挙げている。1)悪魔の力:神様に敵対する霊的な力、2)この世の力:世俗的な価値観や欲望、富や権力への執着に捕らわれる、3)肉の力、肉体的な欲望、自己中心的な思考、弱さや恐れといった罪の傾向。
この世に留めようとする力、引き戻そうとする力に対して、主にあって勝利しよう。

Ⅲ.主にある選び
主の救いに与り、主にある永遠の希望に生きるものは「選びの民」(14節)である。選びの民は「良いわざに熱心」という。良いわざとは単に道徳的に良い働きと言うのではない。イエス様の十字架の贖いによって罪から救われた私たちが、神様の愛と義と聖に満たされつつ、イエス様を喜び、永遠を仰ぎながらこの地上の歩みを続けていく。信仰にあるものたちが神様への喜び、感謝をお返ししていくことである。Cf.今日は後からWVJからの感謝の報告をいただく。世の中には献身的な働きをされている多くの団体があるだろうが、信仰を基盤として良いわざをなしておられることに大きな意味がある。ボブ・ピアス師「すべての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはできる。」。私たちも主にある感謝を良いわざとしてお返ししたい。

クレタ島の信仰者たちは決して誉められた信仰を持っていたのではない。神様は変わらない恵みを注がれ、彼らが自発的に喜んで主の愛に応えていくものになることを願い、導かれている。私たちにも神様の期待に応えていきたい。