聖日礼拝説教要旨‘25.2.2
交わりと宣教④
説 教 題:「福音に生きる」 井上義実師
聖書箇所:コロサイ1:18~24
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。
1:24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
2024年度の教会標語「私たちが互いに愛することにより、外へと向かう力をいただく」から、「交わりと宣教」というテーマでも語ってきました。コロナ禍で疎遠になった私たちの交わりが回復され強められることによって、教会の外へと向かう宣教の力をいただくという理念からです。今日の聖書箇所から私たちが生かされている福音が希望と力に満ちたものであることを受け止めよう。
Ⅰ.神様と和解を得る
20節の「平和」という言葉から考えてみる。平和の対義語、反対語は何かというと最初に戦争という答えになる。戦争で検索すると、戦場の光景、兵器の写真、軍隊の様子などが次々に出てくる。平和で検索するとハトの絵、人々が手をつないでいる様子、折り鶴などが出てくる。人がインパクトを受けるのは圧倒的に戦争、争い、暴力であり、平和は抽象的で訴える力が弱い。戦争や争いは分かりやすく人を引き付けやすい、平和は分かりづらくなかなか人は相手にしてくれない。だからこそ、平和を語り、考え、伝えていくには努力、工夫、忍耐が必要である。
一般的な話をしたが、聖書が語る平和とは何だろうか。21節の「神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にあり」とある。人間の元々の状態は神様から離れ、神様に敵対しているものである。それでは、神様とどのように近づき、神様と平和になれるだろうか。20節の「十字架の血によって平和をもたらし、…御子によって和解させること」が神様のとられた方法であった。イエス様の十字架の血によって神様と人との間に和解が生まれた。イエス様が私たちと神様の仲介者、仲立ちになってくださった。
Ⅱ.和解の信仰に生きる
私たちはイエス様の十字架を通して和解をいただいているものである。23節には私たちが和解の信仰に生きるものであり、和解の信仰を土台にしていると言っている。土台の上に堅く立ちとあるように、私たちは建築物になる。教会がキリストの体であり、私たちが教会につながって、教会を築き上げていくものであることをエペソ人への手紙は語る(エペソ2:20~22)。教会と言うと先ずは建物を思い起こされる。三角屋根で十字架が一番高い所に据えられていて、ステンドグラスがあり、ベンチがありのようなイメージだろうか。建物は見えるものであるが、聖書は教会についてもっと多くを語る。キリストの体ということは本質である。キリストの体である教会にはキリストの命が宿っている。命あるものとして成長することができる。数量的な成長、信仰的・霊的な成長を果たすことができる。命あるものとして動き、働くことができる。教会は存在しているだけではなく、内側の働き、外側の働きを活発化させることができる。
イエス様による神様との和解という土台、イエス様を信じる信仰の土台の上に教会が形作られ、命あるものとして成長していく。日本の教会も100年、150年という教会が少しずつ増えて来た。教会が地上にあるのは、主が来られる日までで何時までかは分からないが、200年、300年さらに継続し成長することを願う。教会には普通の命ではなく神様の命が宿っているからであり、100年以上続くのは次の世代に受け継がれるからである。
Ⅲ.信仰により苦闘する
このコロサイ人への手紙はパウロの獄中書簡の一つである。いつどこでと問われるだろうが、紀元60年頃のローマと言われる。パウロを巡る状況は良くなかった。コロサイ人への手紙もコロサイ教会が異端的な教えに捕らわれてしまっていることに対して、正しいイエス様に対する教えに立つようにという思いで記されている。パウロは少なくとも2重の意味で苦しみを負っている。ローマの獄中での苦しみ、コロサイ教会を案じている苦しみである。パウロはそれを喜びと言う(24節)。イエス様の働きに携わって受ける苦しみは、この世の苦しみとは違う部分がある。自分の苦しみをイエス様も共に負ってくださっている。この世で誤解を受け、誹謗中傷を受けることをイエス様は山上の説教の八福、九福の教えの最後でこう言う(マタイ5:11~12)。喜びとせよ、主の働き人として本物であることを示すと言われた。
苦しみを受けることを良いこととは思わないが、パウロは苦しみを喜びとし、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているという信仰を私たちは理解することができる。
私たちはイエス様の救いによって、和解の恵みをいただき神様に近づくことができた。和解の信仰を土台として教会を建て上げていく。時に苦闘を覚えつつも、喜びながら主に従っていこう。