受難週、棕櫚の主日礼拝
聖書箇所:マタイ26:6~13
26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
今日はイエス様が最後にエルサレムに到着された棕櫚の主日であり、今日から受難週が始まる。イエス様は木曜日の夜にゲッセマネの園で捕えられて、金曜日の朝にはゴルゴダの丘で十字架に架かられた。特別な1週間の中で、献げられたものについて語る。
Ⅰ.献げられたナルドの香油
イエス様は、昼間は神殿で教えられ、夜はベタニア村で泊まっておられたようである。ベタニアで病気を治してもらったシモンの家での出来事である。ある女の人が夕食の席でイエス様の頭に香油を注いだ。マルコ14章では300デナリ以上の価値があったと言われている。ヨハネ12章ではこの女の人はベタニアのマリアと記されている。労働者やローマの兵卒の日給が1デナリなので、単純に1万円とすると300万円以上の価値があった。ナルドの香油はヒマラヤの山麓で採れる植物から作る貴重品であり、インド・アラビアを経て輸入される。今の外国製の香水よりも高価であった。この女性は母、祖母から受け継いで香油を持っていたとも言われる。
この女性の行為は無駄使いであると非難を受ける。この世では、最も効果が上がること、理に叶ったことなどは大切にされる。しかし、イエス様が十字架に架かって命を捨てられたことはこの世の価値では測れない。人の命は地球より重いと一般に言われる。人の命も莫大な価値があるのなら、神であるイエス様の命は何によっても測れない。貴重な300デナリの香油もイエス様の十字架の前には小さなものになる。
この女性はイエス様に献げるという強い愛を持った。間もなくイエス様が十字架に架かられることは分からなかっただろう。今できる最善のこと、最高のことは何かと祈る中でナルドの香油を献げた。イエス様は「わたしに良いことをしてくれました。」と喜ばれ、「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」と言われた。
イエス様に信仰を誉められた人は他にもいるが、ここまで言われたことはない。人の罪や悪が大きな影を落としているイエス様の十字架への道行の中で、今もナルドの香油の香りは漂っている。
Ⅱ.献げられたレプタ2枚
聖書が記す受難週の献げものの中で最も大きなものはナルドの香油だっただろう。受難週の中で最も小さな献げものはレプタ2枚を献げた「貧しいやもめ」(マルコ12:42、ルカ21:2)のできごとであっただろう。レプタ2枚は神殿で献げることのできる最低額であった。換算は幅があるが100円位になる。他には、多くのお金持ちがたくさんの献金をしていた。イエス様の目は一人の貧しい女性に注がれていた。「人々の中で、だれよりも多くを投げ入れた。」(マルコ12:43)とイエス様が言われて、弟子たちは驚いただろう。イエス様は、「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(マルコ12:44)と説明された。持っていたお金を全部、生きる手立てを失うまで献げた女性が出てくる。
この女性は誰かに言われ、強いられてしたのではない。自発的に成し遂げたことは、この女性が神様の愛、恵みにどれ程感謝し、喜びを持っていたのか。神様への全き信頼が根底にあったかが分かる。イエス様の十字架が近づく受難週の中で、2人の女性の信仰がどれほど大きなものであったかを知る。
境遇の違う2人であっただろうが神様に対して、イエス様に対して揺るがない信仰を持ち続けていたこと、周囲から理解されなくとも実行に移す力や勇気を持つ人であったことは共通点である。私たちは信仰を良く理解していると思う。実行に移していくためには御言に立ち、聖霊の導きを求めつつ祈り、共にある主の助けを仰ぐことにある。
Ⅲ.献げられたイエス様ご自身
イエス様はご自分が救い主として果たさなければならない使命を十分に理解されていた。父である神様に全く従い、委ねていく道を選び取ってこられた。弟子たちには、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)と信仰告白した直後から十字架への道を語られ始めた。「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)。
イエス様が十字架に架かられるまでは外側にある妨害、無理解、内側にある戦いも無かったとは言えなく、多くの困難があった。それらを乗り越えていかれたのは、イエス様も神様の御心に全く従い、全く献げられた方であったからである「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」(へブル12:2)。
私たちも受難週は私たち自身の信仰の在り方が問われる時である。主に献げられた、主に喜ばれる歩みをなしていこう。