聖日礼拝説教要旨‘25.5.4
2025年度教団聖句Ⅰ
聖書箇所:ヨシュア記5:10~15
5:10 イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。
5:11 過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。
5:12 マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。
5:13 ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」
5:14 彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」
5:15 主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
2025年度も5月を迎え1か月が過ぎた。4月には受難週、イースター、復活節を過ごしてきた。改めて2025年度の旧約聖書からの教団聖句を開く。今の時はさまざまな分野で変革の時代、節目の時代である。教団全体としてヨシュア記が開かれてきている。
ヨシュア記5章は荒野の旅を終えたイスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、約束の地へと踏み出していく聖書箇所になる。カナンの先住民との戦いを経て、カナンの地はイスラエルの所有になる。カナン先住民との戦いのために備えることが語られている。戦いの備えには3つのことがらが必要であり行われた。何れも聖別がその本質にある。その要件が満たされていくならば、神様の祝福、神様の勝利、神様の栄光が表されていく。
Ⅰ.割礼を受ける 心のきよさ
割礼はアブラハムとの契約のしるしであり、イスラエルの伝統となった。しかし、荒野の旅の間は守れなかった。男性の皮膚の一部を切り取るが、一部ということを考えると、イエス様の洗足が思い起こされる。ペテロはイエス様の行いに恐縮して、足を洗わないようにと言った。イエス様から足を洗わなければ関係が無くなると聞いて、それでは手も頭もと言った。イエス様は洗うのは足だけでよい、全身がきよいと言われた。割礼は隠れた一部に過ぎないが取り去られ、きよめられることによって全身に及ぶことは意義深い。私たちは今、身体の割礼ではない、心の割礼を受けるものである。私たちの心の思いが外に表されるように日々の言葉に、行動に現れていくものである。神様に相応しいきよさがあって神様の祝福が表される。
Ⅱ.過越のいけにえを献げる 神様の勝利
出エジプトの故事から、傷の無い1歳の雄の小羊がささげられる。過越しの祭りも荒野の旅路ではできずにいたので、初めてとなる。小羊の血によるあがないは、出エジプトの際のイスラエルの家のしるしとなった。子羊のあがないによって命が守られるか、失われるか、天と地ほどの違いがある。過越しはエジプトの地での完全な守りが表され、悪しきこの世の力からの圧倒的な勝利であった。
私たちに当てはめるなら、過越しの小羊はあがないとなってくださったイエス様である。この御方によって私たちも、エジプトのような悪しき世界で守られる。神様は悪の力を打ち砕いてくださる。また、小羊は黙示録でのイエス様の御姿である。醜い邪悪なけだもの、反キリストがたくさん出てくる中で、ほふられた小羊が戦い、最終的な勝利が表されていく。私たちはこの勝利者に寄り頼むことができる。神様に相応しいきよさがあって神様の勝利が表される。
Ⅲ.地の産物を食べる 神様の恵み
荒野の40年間、朝毎に天から降ったマナは特別な恵みであった。カナン定住は戦いの後だが、カナンの地に到着してイスラエルの民は地上の産物を食べるようになった。私たちはマナを食べてみたいと思うが、蜜を入れた薄焼きのパンのようだという。神様は完全食を用意されただろうが、柔らかい食物だっただろう。地上の産物は、堅いものも多くある。堅い食物の必要性を聖書は説く。コリント第一3章は肉に属する人は赤ん坊のように乳しか飲めないが、御霊の人は固い食物を食べることができるとある。信仰の成長は固い食物を食べ、咀嚼し、消化し、吸収し、栄養として取り込み、成長する。いつまでも信仰の初歩に留まらない。私たちは神様の前にあって、信仰において、経験において、学びにおいて、もっと多くを求めよう。私たちには乳と蜜が流れる地の恵みが備えられている。神様に相応しいきよさがあって私たちが成長し、神様の栄光が表される。
ヨシュアは神様の言葉通りイスラエルの民を、神様の聖さへと導いた。そのヨシュアに抜き身の剣を持った主の軍勢の将が現われた。私たちはこの地上の世界に生きており、地上の生活の戦いの中にあるが、主の軍勢の将が先立って戦われ、圧倒的な勝利を与えてくださる。
ヨシュアは履き物を脱いで礼拝する。履き物は地面に接する汚れたものである。この世で私たちが生きることは、日々この世のものに触れ、その影響を受けている。この世にありつつも、聖いものとなるように神様は願われている。履き物を脱いで礼拝する姿は全き服従、全き信頼、全き明け渡しを表す。その礼拝は神様の祝福、勝利、栄光につながっていく。