聖書箇所:テモテ第二2:19~26
2:19 しかし、神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。」
2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
2:21 ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。
2:22 あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
2:23 愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。
2:24 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、
2:25 反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。
2:26 悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。
先週に決算総会を終え、7月を迎えた。夏の戦いが始まっていく。今日は荻窪キャンプデー、夏休みに入ってキンダークラスデイキャンプ、ジュニアクラス小学生キャンプ、教区TBC、教団青年宣教大会と続く。私たちより若い世代のために祈ろう。
Ⅰ.全ての信仰者に対して
パウロは同労者、愛弟子のテモテに対して2通の手紙を残している。1:2「愛する子テモテ」、2:1「私の子よ」と呼びかけている。テモテはパウロの働きを良く助け、エペソ教会の牧師をしていた。この手紙は第一にはテモテに書き送られている。単なる個人的な手紙、私信を越えて、全ての信仰者に向かって語られている。
20節「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。」とある。金、銀、木、土でできた器は価値が違う。これは私たちのことを言っている。私たちはそれぞれに違いがあり、この世の尺度で測られる。物心ついた頃から不公平な、理不尽な思いがする。神様はこの世の価値、尺度で測ろうとされていない。素材が何でできていて、時価がいくらなどは重んじられない。
神様が問題にされているのは器の内側がきよいのかということである。金や銀の器でもきよくなければ退けられる。木や土の器でもきよくあれば尊いもの、聖なるものとされ、主人に役立ち、良い働きに用いられる。これは私たちの心と魂が、イエス様の血潮によって、聖霊の満たしによってきよくされることによる。
器がきよくなることを考えると、器は自分の力できよくなれない。きよくする外部の力が必要である。洗剤のついたスポンジでこすり、汚れをきれいな水で洗い流し、清潔に乾燥させる。私たちは、自分は汚れていると神様に自分の心を差し出す必要がある。私の心は汚れていませんと神様に求めないならその人は変えられない「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。~」(テサロニケ第一4:3)。あなたがたとは全ての信仰者への招きである。
Ⅱ.若い人たちに対して
テモテへの手紙第二はパウロが最晩年に書いた手紙と言われるが、我が子の年齢のテモテに書き送っている。22節「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」とある。それぞれの年代にある誘惑、それぞれの性別でも違う誘惑、個人的な誘惑がある。コロサイ3:5には「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、貪欲」が続いて記されている。
若い人がどのように身を守っていくのかは、「どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。」(詩篇119:9)とある。今、身を守るという消極的な話をしたが、若くあっても積極的な生き方を聖書は述べている。同じくテモテに宛てた手紙から、「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」(テモテ第一4:12)とある。自分の青年時代を振り返ってみて、若い時の方が思い切って神様に従える。神様にある挑戦をすることができる。それが、自分の信仰を形作っていく。自信を持って進んでくことができる。一歩を踏み出すことはプラスのスパイラルになっていく。若い時にこそぶつかっていってほしい。
Ⅲ.主のしもべに対して
24節には主のしもべと出てくるが、牧師であるテモテに対する言葉である。テモテ第一、テモテ第二、テトスの手紙は牧師に宛てた手紙で牧会書簡と呼ばれる。23節には愚かで無知な議論は避けなさいとある。この手紙を読んでいくとテモテが奉仕したエペソ教会には間違った教えを伝える誤った教師がいたようである。テモテは正しい側にいるので、誤りを議論で打ち負かすことはできたが、争いの元になった。主のしもべは優しく、柔和に教える、忍耐して導くように勧められている。人の心を頑なにさせるのではなく、人の心を溶かし、真理の道に、正しい道に立ち返らせることができる。このことは、イエス様がこの世に来られたのは仕えられるためではなく仕えるために、自分のいのちを与えるためであったと語られた(マタイ20:28)ことに照らし合わされる。
主のしもべは、私たちの大牧者、真の牧者であるイエス様にならう者である。
教会はこの世から呼び出された、召し集められた、それぞれに違う者たちが集う。皆が集まってキリストの体である教会を建て上げていく。老いも若きも、男性も女性も、強いものも弱いものも、皆が互いのために祈り、思いを向ける。交わりを通して強められ、主の働きを喜びをもって進めていこう。