聖書箇所:コリント第二4:7~15

4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
4:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

本年も6月末の決算総会を迎えた。2024年度の感謝と既に始まっている2025年度の歩みも新たな思いを神様からいただき前進しよう。

Ⅰ.恵みをいただく私たち
私たちは土の器とある。神様はアダムを大地のちり(創世記2:7)で造られ、いのちの息を吹き込まれ生きるものとされた。アダム、エバ以来、私たちは土の器である。器は石器、土器、陶器、磁器と発展した。今、私たちの周りには土器は植木鉢位しかないだろう。土器は素朴だが簡素なもの、柔らかいが壊れやすいものである。土の器である私たちの体も病気になり、怪我をし、疲れ、痛みやすい。
ただの土の器なら誰も顧みないだろうが、信仰者は宝を入れていると言う。土の器の価値は低くても、内に宝を収めているなら尊いものになる。この宝とは文章の流れでは「キリストの栄光の福音」であり、私たちの内に住まわれるイエス様ご自身である(コロサイ1:27)。私たちが弱く、壊れやすく、価値のないものであっても、イエス様の強さ、永遠、栄光の輝きを持つものとされる。イエス様の人格、神性、存在そのものが私の内に生きて感化を与えてくださる。イエス様を受け入れ、イエス様を信じ、イエス様と共に歩むことによって、誰もがこの大いなる恵みに与ることができる。

Ⅱ.恵みに感謝する私たち
さて、土の器に金塊を入れても器自体の価値は変わらない。イエス様を内にいただいても、私たちの弱さ、もろさは変わらない。しかし、内に住まわれるイエス様によって違いが起こる。四方八方から苦しめられても、困り果てない。途方に暮れることがあっても、行き詰らない。信仰による迫害を受けても、見捨てられない。倒されても、滅びない者とされる。土の器に過ぎない私たちはどうしてこのように強く、たくましくなれるのか。
私たちは10節「イエスの死を身に帯びています。」とある。イエス様の死は十字架に架かられてであった。十字架は大罪の報いとして殺される見せしめの刑罰である。神であり罪と汚れの無いイエス様が呪われたと言われる十字架で死なれたのは、私たちの全ての罪と汚れを身に帯びてくださったからである。人間の罪、汚れをきよめ、もたらされた滅びから解き放つためであった。正しく、イエス様の十字架による死は私たちの命であった。
私たちはこのイエス様の愛と恵みに感謝を持って受け止めるしかない。私たちはイエス様の十字架こそ救いであり、十字架こそ恵みであり、十字架こそ誇りであること宣べ伝える。イエス様の十字架を見上げて感謝を日々ささげる者である。

Ⅲ.感謝から栄光へと歩む私たち
私たちはイエス様を内に持つ恵みに生きている。日々の戦いも、人生の波風もイエス様によって強められ、導かれて歩む。イエス様と共にある私たちの歩みの目的地はどこなのか。もし、目的地が無いのなら放浪者、根なし草になる。
15節「すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。」とある。この4章を最後まで読むと、イエス様を内にいただいた私たちが、やがての日に神様の栄光の前に立てるように、栄光の姿に変えられていくことが目的であることが分かる。。私たちはイエス様を内にいただきながら、恵みに感謝をささげつつ、永遠へとつながる旅路を歩んでいる。日々の戦いに疲れ、時に人生の波風に翻弄されることがあっても、内におられるイエス様は変わらない。

私たち信仰者の歩みはやがて神様に引き上げられ、神様とお会いする日が最終目的になっていく。教会の歩みもやがて神様に引き上げられて一つとされる日が来る。私たち一人一人を導かれているイエス様は、教会の主であり教会を導かれている。今日もイエス様の御心を私たちの歩みに、教会の歩みに示していただこう。