聖書箇所:エゼキエル36:26~32
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
36:29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せて増やし、飢えをあなたがたに送らない。
36:30 わたしは木の実と畑の産物を増やす。それであなたがたは、もう国々の間で飢饉のために恥辱を受けることはない。
36:31 あなたがたは自分たちの悪しき生き方と、良くなかった行いを思い出し、自分たちの不義と忌み嫌うべきわざを憎むようになる。
36:32 わたしが事を行うのは、あなたがたのためではない──神である主のことば──。そのことをあなたがたは知っていなければならない。イスラエルの家よ、恥じよ。あなたがたの生き方のゆえに辱めを受けよ。」
暑さは続くが9月となった。教会は振起日礼拝を迎え、秋の働きへと向かっていく。
エゼキエル書36章が開かれてきた。エゼキエルの時代は、北王国イスラエルは既に無く、南王国ユダも滅ぼされバビロンに捕えられた時代になる。神様に選ばれた民を自負していたユダが、外国に敗れ、国が失われ、奴隷として連れて行かれる。ユダの民はバビロンで絶望以外にない、余りに大きな衝撃に茫然自失の中にいた。ゼロになったのではなく、大きなマイナスになった所から話は始まる。神様からの審判であり回復である。
Ⅰ.新しい心とされる
何もかも失ったユダの民に神様はここで26節「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。…石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」と言われた。神様がユダの民の心の内に、霊の内に新しい業をなしてくださる。石の心から肉の心に変えられる。石は固い、冷たい、命が無い、肉は柔らかい、温かい、命を持つという大きな違いがある。神様はユダの民の心を新しく造り変えると言われる。
イスラエルを神様は選ばれ、律法を授けられた。地の他の民と異なり、救いを受けることを約束された。律法を行う、従うことができなかった。神様の心に背き、罪を犯して審判を受けたのがバビロンでの捕囚になる。神様はイスラエルの行いにはもう期待されなかった。イスラエルを見捨てることなく心を造り変えて、従え、生きよと願われている。
Ⅱ.新しい恵みを受ける
バビロン捕囚に至るまでのユダの民はどのような姿、行いだったのか。「汚れ」「飢え・飢饉」「恥辱」「悪」「不義」「忌み嫌うべきわざ」が挙げられる。神様の愛に背く不義、神様の嫌われる偶像崇拝、これらによって汚れに染まり、飢えや恥をこうむるようになった。ユダの民が神様を軽んじ、自分たちのわがまま、自己中心によって、神様の御心を踏みにじった結果である。
神様はユダの民が新しく歩み出すために「新しい心、新しい霊」を与え、「石の心」を「肉の心」に造り変えられる。今までも選びは一方的であり、造り変えてくださるのも一方的な恵みである。ユダの民が神様に従い、定めを守り、彼らは再び約束の地に住み、神様を間近に仰ぐものとされる。豊かな産物をいただいて暮らすことができる。
神様の恵みと憐みがいかに大きなものであるかがユダの民を通して証しされていく。
Ⅲ.新しい神様の布告
神様は何と大きな愛をお持ちであるかと驚くが、神様は32節「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではない」と言われる。何のためなのか、少し前の22節には「神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。」とある。
イスラエルが敗北し、国を失い、敵国の辱めになることは神様の御名が汚されることと言われる。イスラエルの神は聖なる御名によって高められ、崇められる。他の神々は偶像であるので真の神様と比べようもないが、他の神々は人間の欲そのものによって汚れている。真の神様との違いは愛にも、義にも表されるが、聖であることが強調されている。
聖なる神様が聖なる民を整えて、御名の栄光を表そうと願われている。バビロン捕囚の民に呼びかけられた神様が、今私たちにも、イエス様の十字架の血潮によって新しくされることを望まれている。神様の御心に従い、聖なるみ旨を果たしていこう。
