聖 書 ヨハネの福音書15章1~11節

15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

誰にも頼ることなく、自分の力だけで生きていくことが大切だ、と言われることがあるかもしれません。しかし、イエス様はそのようにはおっしゃいません。

Ⅰ. 実を結ぶ人生が与えられている
イエス様はこのとき、一つのたとえを使って話をされます。それはぶどうの木の話です。
ぶどうの木は何のために存在するでしょうか。それは当然「実を結ぶ」ためです。美味しい実がなって初めて、ぶどうの木は使命を果たすことになるのです。現代の私たちにとって、ぶどうがなければ生きていけないというわけではないですが、聖書の世界であるイスラエルにおいてはとても大切でした。イスラエルにとって、水というのはとても貴重な資源でした。いつでもどこでも蛇口をひねれば水が出るということはありません。そのため、ぶどうから作られるぶどう酒(ワイン)はとても大切な飲料であったのです。ぶどうの木は、人々が生きる上で欠かせないものであったことがわかります。
さて、イエス様はこのぶどうの木の話で何を伝えているのでしょうか。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(5節)と言われます。ここで、ぶどうの木と枝が出てきます。木は、地面に根を張り、直接土から生え出ている部分であり、枝はその木につながっている部分です。そして、基本的に果樹は木に直接を実がなるのではなく、枝になります。
ここで私たちがまず考えたいことは、私たち人間が「枝」にたとえられているということです。私たちは、ぶどうの使命を担う大切な部分である「枝」にたとえられているのです。まさに、私たち一人ひとりも「多くの実を結ぶ」(5,8節)という使命をいただいていということなのです。私たちは時に、あなたの代わりならいくらでもいる、という心無い言葉に傷つくこともあるのではないでしょうか。そのような言葉をかけられなくても、自らの生きる意味を見失ってしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、イエス様は「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」と言われます(16節)。愛するお一人おひとりは選ばれた存在なのです。それは「あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」とあるように、あなたでなければならない使命が与えられているのです。あなたの代わりはいないということを覚えたいのです。

Ⅱ. 愛の実を結ぶ
それでは、私たちはどのような実を結んでいくのでしょうか。もちろん、具体的にどのような使命をいただいているのかということは、三者三様、十人十色なわけで、一人ひとり異なっています。他者と比較して、どちらが優れていて、どちらが劣っているということはありません。
確かに、イエス様はここで具体的なことについては言っておられないように思えるでしょう。しかし、ここで一つの大切なことを語っておられることに気づきます。そのキーワードは「愛」です。9〜17節の間で「愛」という言葉が、9回も出てきています。つまり、イエス様が言われた「多くの実」とは、「愛の実」です。あなたがたはぶどうの枝として、多くの愛の実を結ぶという大切な使命が与えられている、と私たちに語られるのです。それゆえに、イエス様は「互いに愛し合」いなさいと言っておられます(12,17節)。
それでは愛の実とは、どのようなものなのでしょうか。改めて問い直してみると、本当に大きなテーマであり、一言では言い表せないように思えるかもしれません。しかし、イエス様のことばから「愛」について教えられるのです。それは「人が友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13節)ということばです。イエス様はここで私たちに愛の本質について語っておられるのではないでしょうか。愛とは、基本的に誰かに与えるものなのだと言っておられます。自らよりも他者を大切にすることが、最も愛らしい愛だということです。
そうすると、私たちは愛することによって、自らが損をしてしまうと考えるかもしれません。しかし、よく考えると誰かに愛を与えていくこと自体、私たちにとって喜びではないでしょうか(例、料理人にとって、美味しい料理を食べて喜んでもらうこと自体が喜びとなる)。そして、私たちが誰かに愛を与えるとき、その愛は広がっていくでしょう。それが、「あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになる」ということばの意味するところではないでしょうか。私たち人は、そのような愛を広げるという大切な使命が与えられています。どれほど素晴らしいことでしょうか。

Ⅲ. イエス様の愛にとどまる
最後に、イエス様がここで最も大切なこととして伝えたかったことを見ます。それは、どのようにすれば、私たち枝が多くの実を結ぶことができるか、ということです。
イエス様は「枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。…人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(4,5節)と言われました。ここで繰り返されていることは「とどまる」ということです。当然、枝はぶどうの木につながっていなければ、水分も栄養も吸収できないので、実を結ぶどころか枯れていきます。それと同じように、私たち枝が本当に使命を果たしていくために大切なことは、木であるイエス様に「とどまる」ということなのです。
愛の実を結んでいくということから考えると、イエス様にとどまることが必要不可欠であるとわかってきます。私たちが誰かを愛そうとする時に、すぐにうまくいかないことに気づきます。自らの内にある自己中心性との衝突するためです。なぜ私ばかりが愛を与えなければならないのか、全く見返りがない、などの気持ちが遅かれ早かれ出てくるのではないでしょうか。私たちの心の中で何が起こっているのでしょうか。私たちの内側で与える愛が枯渇しているということではないでしょうか。まさに、木から離れて水分も栄養も吸収できなくなり、枯れてしまった枝のようになってしまうのです。
私たちは、いつも完全で十分な愛をいただかなければ、豊かな実を結ぶことはできません。それを持っておられるのは、誰でしょうか。それは「わたしはまことのぶどうの木」と言われたイエス様だけです(1節)。あの十字架で、自らを罵るものたちのために、ご自身のいのちを与えてくださったイエス様だけが、私たちに尽きることのない愛を注いでくださるのです。それゆえに、イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)と私たちを招かれるのです。

世間は、私たちに一人で生きていくようにと言われるかもしれません。しかし、それは木につながっていない枝のようです。私たちには、つながることができる方がおられます。そして、その方から豊かな愛をいただき、豊かな愛の実を結ぶことができるのです。このイエス様を信じて、このイエス様と一緒に歩む人生を送ろうではないでしょうか。