聖書箇所:ペテロ第一4:7~19
4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
4:11 語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
4:13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
4:14 もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。
4:17 さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。
4:18 「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」
4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。
新約聖書の後半は黙示録を除いて手紙になる。手紙の前半はパウロの手紙が13通残されている。へブル人への手紙からユダの手紙までの8通が、宛先が教会や個人ではなく、広く宛てられている公同の手紙と呼ばれる。この頃になって、特定の教会や個人ではない公同書簡の方がより深みがあるように感じている。聖書の終わりが近づくとより終末に関して語られている。
Ⅰ.私たちの苦難
今日の聖書箇所には苦難、試練、苦しみという言葉が出てくる。楽しいこと、嬉しいことを求め、苦しいこと辛いことは誰もが避けたい。苦しみが誰に、どんな形で起こるかは分からない。聖書は苦難を否定、無視せずに正面から受け止めていると言える。また、どんなに良い境遇に恵まれ、良い賜物を持っていると見える人にも、人には分からないその人の苦しみがある。
私たちは神様への信仰に導かれ、信仰生活を送る。神様は私たちを愛し、私たちの人生を導かれる。神様を信じていれば、何もかも上手くいくのかというとそうではない。12~16節には信仰者の苦難、試練、苦しみが記されている。神様は苦難の中でどう導かれるのか。1)苦難そのものが解消されることもある。2)神様は苦難を乗り越える力を私たちに与えられる。3)苦難と共に生きるように強められることもある。4)苦難を通して人の慰めや励ましになることもある。
苦難に対して、全てが私たちの望むように進むという御利益ではないが、神様は神様の回答を持ってくださっている。私たちが知り得ない神様の視点から、最善を考えておられる。
Ⅱ.イエス様の苦難
私たちの持つ苦難を神様は決して見過ごされず、関りを持たれている。神様は独り子イエス様をこの世に送られ、神様の愛を表し、神様の救いを確かなものとされた。神様であるイエス様の生涯は苦難と無関係ではなく、苦難そのものを負われた。(2:22~24)「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」。イエス様は私たちを愛され、救いの道を開くために十字架に至る苦難を負ってくださった。
イエス様は私たちの苦難を、この地上での経験によって思いやることができる御方である(へブル4:15・16)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」。
イエス様はあわれみ、慈しみ、思いやりに満ちた御方として私たち一人一人を顧みてくださっている。
Ⅲ.終末における苦難
聖書は終わりの日を指し示している。今日の聖書箇所は(7節)「万物の終わりが近づきました。」と厳かに始まる。ペテロがこの手紙を記して2千年近く経つが終末は未だ来ていない。終わりの時が時間的に遠い、近いということは余り重要ではない。寿命がある人間の時間と、永遠の存在である神様の時は比較ができない。次のペテロ第二3:8「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とある。
私たちは終わりの日に再び来られる、イエス様を何時でもお迎えできる準備をして待つ者である。イエス様が再び来られて、悪や汚れを滅ぼされる。永遠にいたる完成につながっていく。私たちは痛みを抱えつつ地上の生涯を送っているが、永遠に与る希望を持ち、期待し、待ち望んでいく者である。
この世の苦難は存在し、私たちは悩みを持っているが、時の間のことである(5:10)「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」。永遠の栄光を仰ぎ、望もう。
