聖書箇所:コリント第一11:23~29

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

教会では今日は世界聖餐日になる。キリスト教の聖礼典は洗礼と聖餐である。世界聖餐日は1930年代に北米の長老教会から始まった。世界が政治的、経済的、社会的に不安定であり、世界の平和のために教会が一つになるという意義があった。平和と一致の祈り、礼拝、宣言…でも良かっただろうが、聖餐を通して一つになるという意味を受け止めよう。

Ⅰ.イエス様の語りかけ
聖餐式について記された聖書の箇所が導かれてきた。この手紙はパウロが記している。パウロはイエス様が天に帰られた後、弟子に加わった。イエス様と同時代であるが、直接に出会っていない。23節「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。」とある。パウロはまるで、イエス様と会い、言葉を交わし、思いを伝えられたかのようである。
パウロはかつて、イエス様に反対しイエス様を十字架に付けたパリサイ人の一人であった。ただ反対しただけでなく教会を荒し、キリスト教徒たちを迫害し、恐れられた。ユダヤ国内だけではなく隣国のダマスコに行ってまでキリスト教を妨害しようとした。ダマスコの手前で天から光が照らし、天からの声を聞いた(使徒8:3~8)「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」「主よ、あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」迫害者サウロが、使徒パウロに変えられていった。
イエス様と出会うことは、普通の人間同士の出会いを超えている。イエス様は目の前におられなくとも声を聞き、感じることができる。パウロの経験のようなことも起こりうる。しかし、神様は誰にでも分かる形で聖書の御言を通して語られ、メッセージを伝えてくださる。普段、御言に聞く、御言に養われることが大切である。イエス様は今も生きて、私たちを励まし、導いてくださる。

Ⅱ.イエス様のなさった業
パウロはイエス様がなさったことが聖餐に結びついていることを語る。
・時:23節「主イエスは渡される夜」、イエス様が十字架にかかられる前夜
・場所:25節「食事」、弟子たちと共にとられた夕食の席
・何を:23-25節「パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き」「同じように杯を取って」、パンとぶどう酒を取られた。パンはイエス様の肉体、ぶどう酒はイエス様の血を表している。イエス様が十字架にかかり、肉体と血をささげられることの象徴。
・何のために:25節「新しい契約」神様は歴史を通して救いと祝福の契約を結ばれた。ノア、アブラハム、モーセ、イスラエルの民に広げられた。イエス様の新しい契約は1個人、1民族を超えて全世界、全ての人へ広げられた。誰もが与ることのできる救い、祝福、恵みが約束されている。
この大いなる救いをおろそかにしないことが語られる。ふさわしく整えられ、自分自身がどうであるのかを問いかけ、わきまえていることによって聖餐に臨める。

Ⅲ.イエス様が来られる日まで
イエス様が生きておられ、私たちと出会い、導いてくださる。イエス様の救いの恵みを思い起こすために、私たちは心へりくだって聖餐に与る。イエス様が十字架にかかられ、やがて教会が生み出され、教会は聖餐を持ち続けてきた。
私たちが聖餐を続けるのは、26節「主が来られるまで」である。イエス様が再び来られ、悪を滅ぼし、汚れを一掃し、永遠の神様の御国を造られる。その日まで、私たちはイエス様の救いを宣べ伝え、礼拝をささげ、聖餐を守り続けていく。イエス様が来られるとイエス様との間に隔てがなくなるので、礼拝に集う、聖餐をささげることは必要がなくなる。イエス様と共にあることが常時、礼拝と聖餐を持つことになる。

私たちは大切な愛するお客様を迎える時に、家の中を整え、きれいにし、何を用意しようかと一生懸命考える。この世の人に対してでさえそうするのであれば、イエス様が来られることが分かっていて、荒れ放題、汚れっ放しで、何の準備もできていないのであればイエス様は嘆かれるであろう。私たちの心と思いがいつもイエス様に向けられているように。イエス様がお出でになるまで心へりくだって、礼拝と聖餐に与り続けよう。私たちが暗い世界に灯火をともし続けて、イエス様の救いと再臨を指し示していくために。