聖日礼拝説教要旨‘26.1.4
新年礼拝

説 教 題:「真の礼拝者として」   井上義実師
聖書箇所:ヨハネ4:19~26

4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

2026年の新年礼拝を迎えた。今年も52回の礼拝に主の臨在の豊かさと、上よりの愛の注ぎを祈る。講壇に立つ自らの小ささ、乏しさを覚え、身の引き締まる思いがする。小さき者の御言の取り次ぎのために今年もお祈りいただきたい。新年に当たって「真の」という言葉が心に留まる。私たちは神様の前に、真の信仰者、真の祈祷者、真の賛美者、… それらの中心には真の礼拝者がある。私たちは週毎の礼拝を献げ続けながら、天を目指す巡礼者であることを覚える。
そのような導きの中でヨハネ4章が開かれてきた。イエス様がサマリアのスカルの井戸辺で一人の女性と出会われた。永遠の命に至る水という重大な話をイエス様は語られた。イエス様を通して永遠の命の水は私たちを神様の救いに導く。永遠の命の水に与かる喜びと感謝は自分のみならず周囲をも潤す。続いて、大切な礼拝についてイエス様は語られた。

Ⅰ.この世のこだわり
この女性は、初対面のイエス様が自分の私生活をよくよくご存知だったので預言者であると見た。彼女はイエス様が、神様が遣わされた神の人であることを理解していた。彼女は、この対話の中で、イエス様が預言者を越えた、救い主メシアであることを知る。
この女性が聞いた命の水の話は永遠につながる重大な話であるが、彼女が礼拝について尋ねていることに驚く。私たちは、普段考えていないことを突然に話し始めることはない。この女性が何時も礼拝について考えていたからこそ、突然の出会いでも礼拝の話を切り出せた。神様について、信仰について一生懸命に受け止めていたのである。
サマリア人の「この山」(20節)はゲリジム山になる。サマリア人はゲリジム山に宗教的な中心を置いていた。ユダヤ人の宗教的な中心は、シオンの丘エルサレムの神殿である。どちらが正しいのか、間違っているのかという話である。私たちの周りでもどちらが上か下か、元祖か本家かなど、何にでも問題になる。
礼拝で問われるのは場所なのだろうか。旧約聖書の時代は場所が大切であった。今や、イエス様を崇める礼拝は場所を超越しており、世界中どこでも信仰者の集まる場所に公同の礼拝はある。私たちの礼拝も神様が喜んで目を留めてくださっている。

Ⅱ.神様の問いかけ
礼拝の本質をイエス様は問われる。ユダヤ人は律法に基づいて犠牲や儀式をささげた。やがて時を経て、それらは形だけになり、主の前にひざまずき、真心をささげる礼拝は失われた(イザヤ1:11~15他)。イエス様は「まことの礼拝」とは「御霊と真理」によると言われた。御霊を、神様を信じる私たちはいただくことができる。ヨハネ7:38でイエス様は、その人の心の奥底から、生ける水の川流れ出るようになると言われた。神様からいただくこの水は御霊である。聖霊が豊かにされることはイエス様への信仰から始まる。「真理」は神様からいただく霊的な、不変の真理である。礼拝は神様からいただく聖霊をいただく機会だけではなく、私たちを神様の霊的な真理に導いていく。礼拝こそ私たちの全身全霊でささげるものである(ローマ12:1・2)。礼拝は神様が備えられ、与えられるものと、私たちの応答から成る。「御霊と真理」をもって私たちも神様に礼拝をささげよう。

Ⅲ.この女性の変貌
この女性は、ここに至ってイエス様をキリスト・救い主と知ることができた。自分の私的な生活に光が当てられ、公的な生活である礼拝について語られたことの後である。私たちもイエス様との出会いによって変えられ、個人的な変革がなされた。次に、信仰によって、まことの礼拝者として導かれるという経験をしていく。礼拝は儀式を超えており、義務だからではなく、生ける神様に触れていく豊かな恵みに満ちている場所と時間である。
礼拝は、集まって共に生ける御言を分かち合うという説教、イエス様の臨在と救いの事実を身に受けていくという聖餐を大事な柱としている。この公同の礼拝は、場所を問うものではない。どこにあっても真の礼拝者によって、真の礼拝がささげられていく。御霊と真理によってこの1年も真の礼拝となるように心を一つに求めていこう。

この女性はイエス様と出会った感動を町の人々に証しした。自分自身が変えられた、満たされ、潤されたという体験をいただいた。真の主を礼拝することができる喜びによって彼女は動かされ、押し出されていった。今、私たちはこのような感動を持って礼拝をささげているだろうか。まことの礼拝者を求めておられる神様に応えていこう。