聖日礼拝説教要旨‘26.1.25
聖書全巻通読第62巻
聖書箇所:ヨハネ第一4:13~18
4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
ヨハネの手紙第一の全体を見渡しながら、開かれてきた4:13~18について語っていく。使徒ヨハネは12弟子で最も若く召し出され、最も長く地上で仕えた。福音書、手紙3通、黙示録を記しており新約聖書中パウロに次いで文章を残した。ヨハネが用いた言葉、考えは一貫している。「ことば」「いのち」「光」「愛」は各書巻に表されている。
ヨハネはイエス様に特に愛された弟子として、イエス様を親しく「聞いた」「見た」「手でさわった」(ヨハネ第一1:1)と言う。イエス様はヨハネを造り変え、彼を動かし、彼を生かして用いたことはヨハネ各書から明らかである。ヨハネはこの手紙を彼が奉仕していたエペソから周囲のアジア諸州(現在のトルコ、小アジア)の教会に広く読まれることを願って書き送った。ヨハネはこの手紙の中で特に3つのことがらを願っている。
Ⅰ.喜びに満ちる
「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」(1:4)と記す。この言葉の前後には、神とイエス様との交わりが出て来る。神様、イエス様との交わりによって、喜びが満ちあふれる。この世の喜びは必要だが、喜べないことが起こると直ぐにしぼんでしまう。神様にある喜びは何によっても奪えない、消せない。御霊の実の一つである(ガラテヤ5;22)。
Ⅱ.罪を犯さない
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」(2:1)と記す。罪が神様との交わりを壊し、喜びを消し去る。イエス様の十字架の死が「世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(2:1)とある。イエス様の十字架の死に赦されない罪はない。赦される神様は私たちが罪を犯さないように守ってくださる。
Ⅲ.永遠のいのちに生きる
「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」(5:13)と記す。「イエスがキリスト(神様に任命された救い主)であると信じる者はみな、神から生まれたのです。」(5:1)とある。私たちは母親から肉体の命を持って生まれるが、信仰によって神様から永遠の命を持って新しく生まれる。この手紙が宛てられた信徒たちは分かっていなかったという。私たちも自分たちの内に永遠の命があることを真実に受け止めているのか。その恵みにどれほど感謝し、永遠の希望に生きているかが問われる。
最後に本日の聖書箇所を開く(4:13~18)。この6節の間に「とどまる」が7回出てくる。この「とどまる」はヨハネ15章のぶどうの木のたとえに使われている「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)。とどまるは、口語訳聖書ではつながると訳されていた。イエス様を救い主と信じる信仰によって、神様はその人とつながり、その人は神様とつながる。その人は、神様の愛のうちにとどまっており、神様の愛が全うされる。神様の愛は勝利につがっていく「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5:4・5)。
神様とつながり、とどまることによって、私たちの現実の生活に神様の愛を表していただき、神様の勝利を喜ぶことができる。
