聖書箇所:詩篇62:5~8

62:5 私のたましいよ黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。
62:7 私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神のうちにある。
62:8 民よどんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。セラ

2月を迎えた。これから教会にとっては信徒懇談会、教会総会、教区にとっては教区総会、教団にとっては教団総会が開かれ、4月からの新年度の方針が祈りの中で定められる大事な時期となる。2月最初の聖日に神様への思いを新たにし、私たちの歩みに御心を示していただきたい。ダビデは73篇の詩篇を残しているが、彼の詩篇の一つから彼が持っていた信仰を見ていこう。詩篇全150篇については多くの研究がなされている。内容による分類で賛歌、嘆きの歌、感謝の歌、霊的な歌と分けられると考えられる。今日の詩篇62篇は1~4節ではダビデの敵対者たちへの嘆きの歌と言えるが、5節以降は神様への信頼の歌となる。厳しい状況の中から神様に信頼するダビデの信仰から教えられたい。

Ⅰ.神様を待ち望む

1節に続いて5節も「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。」とある。ダビデの周りに敵が迫り暴力を振るおうとしている、悪企みをし、人をおとしいれようとしている、偽りの中に囲まれていると言う。ダビデは悪しき者に反論も、ののしりもしない、黙っているが、沈黙は神様への祈りにつながる「黙って ただ神を待ち望む」。詩篇に「ダビデの祈り」と題された詩篇は17篇、86篇の2つがあり、両者共にダビデは悪しき者からの救いを待ち望む「あなたの右の手で奇しい恵みをお示しください。向かい立つ者どもから身を避ける者を救う方。 瞳のように私を守り御翼の陰にかくまってください。」(詩篇17:7・8)。ダビデの神様に守りを願う、切なる祈りが繰り返し出てくる。

Ⅱ.神様の救いに立つ

ダビデは信仰に立って、神様を見上げて歌う「神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。」(6節)。

旧約聖書には「岩」は度々出てくる(神様との契約、恵みの記念碑、避け所…)。新約聖書ではイエス様に当たる「みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」(コリント第一10:4)。イエス様は私たちを守られ、霊的な祝福を与えてくださる。

「救い」はイエス様に直結している「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)。救い主はただ一人、私たちはイエス様以外に救いの道を持ちえません。

「やぐら」は新約聖書にはぶどう園のたとえのみに出てくる。旧約聖書の雅歌は、主との親密な交わりであると雅歌霊解を通してバックストンは語る。雅歌に「ダビデのやぐら」(雅歌4:4)とある。ダビデの子孫として生まれたイエス様は私たちを愛してくださり、優しさを持って守ってくださる。

イエス様は私たちの岩となり、救いとなり、やぐらとなって守ってくださる御方である。

Ⅲ.神様への信頼

信頼という言葉は詩篇では84回用いられており、詩篇の主題となる言葉の一つである。詩篇32篇には「悪しき者は心の痛みが多い。しかし主に信頼する者は恵みがその人を囲んでいる。正しい者たち主を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ喜びの声をあげよ。」(32:10・11)とある。詩篇に、主によって義とされた者たちは「幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。 幸いなことよ主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1・2)とある。主に心が真っすぐに結び付いている者たちは、主への期待を裏切られることは無い。主の恵みによって困難を乗り越えて、喜びをいただくのである。

ダビデは困難に取り囲まれていても、慌てふためくことはない。黙して神様が現われ出でてくださり義を表してくださることを待ち望んでいる。神様の救いと栄光が現わされていくことを信じて、揺るがされない姿を見ることができる。ダビデの信仰にならいながら、私たちも困難が目の前にあっても、主に信頼し、主の御業がこの年、新たに現わされていくように、御心の内を歩んでいこう。

「イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)