聖  書  創世記3:1-24 ローマ6:23

1:さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
2:女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3:ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
4:へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5:それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
6:女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7:すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
8:彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
9:主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
10:彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
11:神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
12:人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
13:そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
14:主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
15:わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
16:つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。
17:更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
18:地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。
19:あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
20:さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
21:主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
22:主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
23:そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
24:神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

23:罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

金 言
「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」 。 (ローマ6:23)
 本日の金言は、「罪の支払う報酬は死である」と、「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」と、二つのうち、「どちらなのか」と、迫ってきます。そこでのその中間、どちらでもない第三の道はあり得ないのです。
1,永遠の死
 「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4)。死の否定は、神の審判の否定、罪の肯定です。神のように、自分が最高の存在となり、自分で自分の生き方を決めるという悪魔の誘惑です。神の存在否定ではなく、神の権威の否定であり、神に対して素直に信じて従うことの否定です。
 罪の結果は、「神の顔を避ける」ことです。神との人格的な親しい交わりがなくなり、人は、神を恐れるようになりました。「裸」とは、神の愛、恵、保護がないことです。自分で自分の罪を「隠す」ことはできません。ただ、神が造ってくださった「皮の着物」(3:21)だけが、「裸」を隠すことができます。主イエス・キリストの十字架の救いを予表しています。主イエス・キリストによる悪魔と罪との勝利を預言しています(3:15)。
人は自分の罪を素直に認めません(3:12,13)。神のない人間関係は、愛が失われ、支配の関係です(3:16)。神の栄光をあらわす「生きがい」もなく、ただ、死を待つだけです。 人の罪によって、自然も破壊されてしまいました(3:17,18)。神のいない「死の世界」です。神が「きっと死ぬ」(2:17)と言われたのは、神との断絶による「魂の死」、罪の結果としての「肉体の死」、そして、最後の審判の後の「永遠の死」(第二の死)」(黙示録20:14)のことです。
 「永遠の死」は、罪の報酬です。罪の結果、罪の終着地です。
2,永遠の命
 わたしたちが、主イエス・キリストの十字架の救いを信じる理由は、「永遠の死」からの救いがあるからです。神は、主イエス・キリストによって、永遠の命を与えてくださったからです。(ヨハネ3:16)。「罪」と「死」の問題を解決できない神は、偽物です。「罪」と「死」に解決のない人生も、偽りの人生です。死は罪の報酬でした。
 つまり、自分の報いです。しかし、「永遠の命」は、「神の賜物」で、神が与えてくださるのです。だから、わたしたちは、個人的に受け取る必要があるのです。そして、永遠の命の「確かさ」に生き続けていかなければなりません(ヘブル10:35-39)。神は、人の罪のために神の独り子の命を犠牲にしました。
 主イエスご自身は、自ら、罪人の身代わりとなり、永遠の死を死なれたのです。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル2:14-15)。永遠の命とは、この世にあっては、神と主イエス・キリストを信じることです。
 「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。永遠の命とは、主イエス・キリストの再臨の時、栄光の体に復活させられ、永遠の新天新地に住まうことです「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:40、68)。 
 神は「永遠の死か」「永遠の命か」と二者択一を迫り、神の賜物として、主イエス・キリストによって、「永遠の命」を与えられるのです。受け取り信じるのです。