聖 書:ヨハネ7:37~44

(37) 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。(38) わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。(39) これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。(40) 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、(41) ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。(42) キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。(43) こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(44)彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。

 今年の夏は近年にない酷暑の連続です。消防庁の集計によると5月31日から8月15日までに熱中症により救急車で病院に運ばれた人は全国で3万1579人。そのうち65歳以上の人が1万5051人で約半数を占めています。
主イエスは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(37-38)と言われました。長引く不況の中で、私たちは身体的な暑さだけでなく、霊的な渇きを覚えているのではないでしょうか。今日の聖句を通して霊的な熱中症から解放されたいと願います。
Ⅰ.生ける水と仮庵の祭
 「祭」とは「仮庵の祭」を意味しています。イスラエルには三大祭(過越の祭、七週の祭、仮庵の祭)がありました。過越の祭はエジプト脱出を記念するもの、七週の祭は小麦の刈入れを祝うもの、仮庵の祭は一年の最後に行われる収穫祭で、荒野における天幕生活を想起するものでした。仮庵の祭は七日間行われましたが、七日目の最後の日にはシロアムの池から運び上げられた水が神殿の祭壇に注がれたのです。それは収穫をもたらす水の恵みに対する感謝の意味が込められていました。その儀式の最中に主イエスは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と叫ばれたのです。霊的枯渇状態にあるイスラエル人の心を確実に捉えた主イエスの言葉でした。同じような状態にある私たち一人ひとりもこの主イエスの言葉に全身全霊を傾けようではありませんか。
Ⅱ.生ける水と聖書の教え
主イエスは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われました。「聖書に書いてある」という言葉は特定されたものではありません、しかし聖書に精通したイスラエル人には、それはすぐに理解することが出来たのです。イザヤは「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである」(44:3)、「さあ、かわいている者はみな水にきたれ」(55:1)。エゼキエルは「水が宮の敷居の下から、東の方へ流れ出ていた」(47:1)、ゼカリヤは「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる」(13:1)と記しています。まさしくそれはやがて下される聖霊を意味していたのです。
Ⅲ.生ける水と聖霊
 「生ける水」とは、「イエスを信じる人々が受けようとしている御霊」(39)をさしています。しかし「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった」(39)のです。「栄光を受ける」とは、キリストの十字架、復活、即位を意味しています。その後聖霊はペンテコステの日に降られたのです。この聖霊はすべて信じる者に与えられる恵みです。マーレーは聖霊について「真理の霊、愛の霊、祈祷の霊、能力の霊、内住の霊」をあげています。中でも私たちに最も必要なものは「愛の霊」ではないでしょうか。「愛」に満たされることによってこそ、私たちは聖霊の他のすべての賜物を受けることになるのです。
 
現在社会は愛の冷えた時代、とりわけ家族が崩壊しつつある危険な時代です。キリストの愛を知ることなくして、解決の道は他に見出すことが出来ません。お互いの腹から生ける水が川となって流れ出ることを期待いたしましょう。