聖日礼拝説教要旨‘25.9.14
敬老感謝祝福礼拝
説 教 題:「神様の平和の約束」 井上義実師
聖書箇所:ゼカリヤ8:1~6
8:1 次のような万軍の主のことばがあった。
8:2 万軍の主はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。
8:3 主はこう言われるわたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。
8:4 万軍の主はこう言われる再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。
8:5 都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。
8:6 万軍の主はこう言われるもし、これがその日に、この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には、不思議に見えるだろうか。万軍の主のことば。」
9月第二聖日は敬老感謝祝福礼拝を迎える。行政上の高齢者は65歳からで、私の高齢者カウントダウンは後2年になった。荻窪栄光教会の敬老祝福リストには後12年になっている。75歳の皆様、それ以上の御様もお元気でお若い。
ゼカリヤ書が開かれてきた。イスラエルがバビロンに捕え移された期間が終わり、帰国が許された。エルサレム神殿の再建に取りかかるが中断していた。ハガイ、ゼカリヤが神殿再建を励まし、勇気づける。新しい時代への期待が生まれてきている。神様はゼカリヤの時代を超えて私たちに語っておられ、さらに終末も含まれている。
Ⅰ.私たちをねたむほど愛される神様
神様は2節「ねたむほど激しく愛」される御方である。私たちの言葉感覚と旧約聖書の民の言葉感覚の違いを感じる。「ねたみ」についてはコリント第一3:3には「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがある…」とある。ねたみが人間本来の持つ悪として出てくる。旧約聖書での「ねたむほどの愛」は、一般的な話として夫婦関係で考えると、ねたむという感情が強い方が、相手への愛情が強いと言える。伴侶が誰といても、何をしていてもねたみを感じないのであれば醒めた夫婦と言える。神様はねたみを覚えられるほどに私たちを、強く深く愛してくださる御方である。
2節「激しい憤り」は何に対してであるか。この時のバビロンや周辺の異教の神々、神殿再建を妨げる敵対者たちに向けられている。私たちに当てはめると、私たちを神様から引き離そうとする悪や汚れたものに対してである。
神様は神様に属する者にはねたみほどの愛を持たれており、神様の敵対者には激しい憤りをくだされる。大変、分かりやすい。私たちも神様をどう考え、どう受け止めるか二者択一の部分はある。神様はどちらでも良いと考えられていない。私たちが救い主イエス様を信じる道を選ぶように願っておられる(へブル2:1~4)。神様の願いに応えていこう。
Ⅱ.私たちのただ中に住まわれる神様
神様が激しく愛されていると語ったがそれは何に表され、証しされるのか。3節「エルサレムのただ中に住む。」とあるように、神様は神の民の真中にいてくださる、神様の臨在である。イスラエルの南北王国が滅亡する時期、バビロンに捕えられた間、神様の臨在は無くなってはいないが薄かっただろう。神様が共におられることが新たにされる。
臨在という言葉は「顔」という言葉が使われる。顔はその人の象徴、人格を表す。神様の臨在は人格的な交わりである。正しい者は(詩篇11;7)「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」とある。何らかの妨げがあると(詩篇13:1)「御顔を私からお隠しになる」。神様が御顔を向けてくださるのは祝福であり、救いである(詩篇31:16)「御顔を しもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって 私をお救いください。」。
新約聖書の中に生きる私たちは、神様の臨在としてイエス様ご自身(ガラテヤ2:20)「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」、聖霊(コリント第一3:16)「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」が私の内に共におられる。何処かに行かなければ神様にお会いできないのではなく、私が神様と共に生き、神様を持ち運んでいる。
Ⅲ.神様の群れに全世代の民が満ちる
神様は私たちを愛され、内に住まわれる。神様は私たちに平和をもたらされる。4・5節に長寿の老いた男、老いた女が広場に座る。その広場は男の子、女の子で一杯であり、遊んでいる。戦争、災害、疾病などがあったとすればこのような光景は無い。老人も子どもも弱い存在であって、困難・危害に耐えられない。老人も子どもも穏やかに、円満に過ごせるのは平和のゆえである。今はまだ廃墟のままのエルサレムであるが、やがてこのような穏やかな、暖かな光景に満たされるという神の民への約束である。
エルサレムでなされるこの光景は、今は、教会の内になされていく神様の働きである。教会の内には全世代が共に集い、穏やかに過ごす。やがて終末の日に新天新地が完成して、全ての聖徒が呼び集められる。永遠の平和がもたらされていく。
