聖 書 マルコ5章21節~28節
(21) イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。(22) そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、(23) しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。(24) そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。(25) さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。(26) 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。(27) この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。(28) それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
十二年間も長血をわずらっている女、そして十二才の少女。二人がどんな関係かは知らないが二人の女性が過ごしたそれぞれの十二年間を推測してみると色々な事が考えられる。彼女たちが過ごした十二年間の歳月を考えてみよう。
1.同じ十二年と違う十二年
 神様は創世記一章一節のところで天地万物と共に時間をお造りになった。私たちは皆同じく毎年十二ヶ月、毎日二十四時間を神様から頂くのである。二人の女性にも神様からの同じ十二年があった。ところで二人が過ごした同じ十二年という歳月は全く違う時間である。腕にある時計の時間と心で感じる時間のスピードは違うものである。十二年間、重い病を持っていた女性にとって十二年はあまりにも長い歳月であった。二十五節に「十二年間にも」と書いてある。彼女の苦しい心をうまく表した表現である。その反面、十二才で死んだ少女にとって十二年間はあまりにも早くて短い時間である。
2.違う過去と同じ未来
 二人の女性は全く違う人生を歩んでいた。全然違う十二年間を過ごした。しかし二人の人生は後に幸せな人生に変わるのである。二人の人生は主にあって変わったのである。しかも同じ幸せの人生に変わったのである。一人が主に繋がって、もう一人がまた主に繋がって二人とも互いに繋がることになった。彼らは別々にイエス様を信じて救われたが、主にあって同じ神様の子供、同じ神様の家族になった。イエス様と出会うことによって彼らの未来が幸せの未来に変わったのである。

3.私たちの十二年の過去と未来

 人生において十二年という時間は長い歳月である。私たちは既に過去の十二年を使ったのである。その結果が現在である。少なくとも私たちは一応、成功者である。なぜなら様々な過去の経験は別として、イエス様を信じて教会に集まっている事だけで成功しているのである。私たちはこれからも新しい未来を主から頂くのである。今月第一週の主の日は召天者記念礼拝を通して信仰の先輩たちのことを懐かしく回想した一日であった。先輩たちは大きなビジョンを持って熱心に主の為に働いた方々である。私たちもその先輩たちに肩を並べる人になりたいのである。私たちの子孫が誇りにするような信仰の先祖になりたいのである。その為にこれからはもっと熱心に主に奉仕して行きたいのである。
 
 来年も神様が私たちの為にどんな素晴らしい計画を立てておられるかを楽しみにしながら堂々と私たちの未来を歩んで行きたいのである。