聖 書 ローマ人への手紙15章1~6節
15:1 わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
15:2 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。
15:4 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

金 言
どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。      (ローマ15:5-6) 

今日は受難週礼拝です。聖書に倣って礼拝の中で聖餐式があります。一年に数回聖餐式を行いますが、とりわけ受難週に行う聖餐式は感慨深いものです。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。…」(Ⅰヨハネ3:16)

昨日は結婚式でした。牧師は新郎に尋ねます。「あなたはこの人を愛し、この人を慰め、この人を敬い、健やかな時も病める時もこの人を守り…」とこれを神と会衆の前で誓わせます。この誓約はイエスさまのわたしたちの対する愛そのものなのです。イエスさまがためらうことなくいのちを捨てて十字架につかれたという事実がイエスの愛の誓いを真実であることを何より証明しています。このかけがえのない尊い愛でわたしたち一人ひとりは神に深く愛されています。

1.そしりを受けられた神

3節にある「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」とは、旧約聖書からの引用で「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだからです。」(詩篇69:9)これは福音書で宮きよめと言われる箇所を髣髴させます。イエスは過越し祭りでエルサレム神殿に行き、神殿の中庭で犠牲の鳩を売る人や、献げものに使う硬貨に両替する人を見て、思わず神の義憤を覚えて商売道具を壊して商売人をしかりつけます。柔和で憐れみ深いイエスにしては異様と見えたこの出来事をヨハネは『弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。』(2:17)と記しています。神の子イエスが世に来られて御父の前に正しく生きようとするとき、罪びとたちの世界ではその正当性は受け入れられず奇異に映ることがありました。そしてイエスは十字架上でもそしりを受けられた神だったのです。ルカ23:35~37では人々はこぞって、あなたがユダヤ人の王でキリストなら自分自身を救えばよいとののしりました。

キリストは罪がまったくないにもかかわらず、十字架による肉体的な苦しみに加え、神の子を冒涜する人々の憎悪、そしりがイエスにふりかかりました。その苦痛と屈辱に耐えられたのは、他でもないわたしのためあなたを救うためでした。

2.十字架に見る忍耐と慰め

今日の聖書箇所には「忍耐と慰め」という言葉が二回繰り返されています(4,5)。十字架による受難を通して聖書がわたしたちに教える忍耐と慰めとの神とはどのようなお方ですか?ヘブル12:2~4には「恥をもいとわないで十字架を忍び、」(2)、「罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべき」(3)とあります。イエスは悲壮感ではなく、堅い意志を持って十字架を忍び、わたしたち罪びとを忍耐された上ですべてを赦されました。主がどれほど忍耐されたか?それは「罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほど」(4)です。私たちのためにならご自身のいのちとひきかえに罪の身代わりの死を選ばれるほど、壮絶に忍耐をされたのです。イエスの忍耐には十字架で流された血潮の尊さが込められています。その贖いのゆえにわたしたちにはとこしえの慰めが保障されています。それが「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(Ⅰヨハネ1:7)です。すべての罪とは過去はもちろん現在も未来必ず犯すであろう罪も、自覚のあるなしに関わらないあなたが神の前で犯したすべての罪をイエスの血がことごとく洗い清めてくださったのです。このような大きな慰めが他にわたしたちにあるでしょうか。

3.イエスにならって同じ思いをもつ

主がどんなに大きな犠牲を払ってわたしたちのために、十字架のそしりをうけてくださったか学びました。イエスは「忍耐と慰めの神」です。わたしたちの罪を十字架の極みまで耐え忍ばれ、わたしたちはすべての罪がきよめられるという平安に満ちた慰めがすでに与えられています。この慰めはゆるぎない希望に変わります(4)。救われて同じ希望をもったわたしたちが「キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ」る(5)ことが主からもとめられています。「心を一つにし」つまり信仰による思いの一致と、「声を合わせて」(6)とは色々な意見が出されても最後はキリストにあって同じビジョンに立ち、キリストをかしらとしてからだそれぞれの役割を果たしましょう。来週から新年度です。復活を記念するイースターから始まる今年度の聖日に教会も新しい出発をします。