聖 書:使徒行伝3章1節~10節

(1) さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、(2) 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。(3) 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。(4) ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(5) 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、(6) ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(7) こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、(8) 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。(9) 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、(10) これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。

 W杯もいよいよ大詰めを迎えた。わが国は予選リーグで早々と敗退したので興味は薄れて しまったが、ここに来て注目を浴びているのが中田英寿選手である。朝日新聞7月4日付朝刊 は中田選手の引退を、「『個』を貫いた時代の先駆者」という見出しで第一面で報じた。ま だ29才という若さなので評価は分かれるであろうが、「私」流を貫いたことは確かであろう 。
 ペテロは、施しを乞うた生まれながら足のきかない男に対して、「金銀はわたしには無い 。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい 」と言った。ペテロの言う「わたしにあるもの」とは果たして何を意味しているのであろう か。
Ⅰ.この男性になかったもの
 この男性は先天的身体障害者であった。彼は毎日だれかの介護によって「美しの門」の前 に運ばれ、往来する人々に施しを乞うてはその日の生活の糧を得ていた。美しの門前に横た わる哀れな男性、ここに我らのこの世における生活の縮図を見ることができる。外面と内面 、虚像と実像、物質と精神、この世と死後の世界、これらすべてにおいて我らの生活は不均 衡であり、不安定である。この男性には自由も、愛も、喜びも、目標も、感謝もなかった。 それは究極のところ真の命がなかったためである。
Ⅱ.ペテロにあるもの 
「金銀はわたしには無い」とペテロは言い切った。この言葉は、金銀は無いが銅鉄ならあ る、大金は無いが小金はある、と言うような意味ではない。主イエスは「神と富とに兼ね仕 えることはできない」(マタイ6:24)、「自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、 わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:33)と言われた。パウロは「主キリスト・イエ スを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ3:8)と言っ た。我らはペテロの言葉の中に、金銀に対する執着心からの解放と主イエスに対する全き信 頼が存在していることを見出さなくてはならない。これこそがペテロが「わたしにあるもの 」と言った「神の命、永遠の命」そのものなのである。
Ⅲ.この男性が受け取ったもの
ペテロは「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と叫んだ。そして「彼の右 手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立 ち、歩き出した」。ここに肉体の癒しがある。次に「歩き回ったり踊ったりして神をさんび しながら、彼らと共に宮にはいって行った」。ここに霊的な癒しがある。彼は人間として全 き新創造のみわざに与ったのである。
わが国の現状は「パンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことの ききん」(アモス8:11)である。時代の風潮に流されるのではなく、「私にあるもの」と言い 得るものをしっかりと持つ者でありたい。