聖書:ローマ人への手紙8章1~11節

1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

 北朝鮮のミサイル発射問題に関する国連安保理の制裁決議案を巡って世界は大きく揺れている。続いて行われるロシアサミットにおいても大きな議題となることは必至である。問題の根源は深いが、北朝鮮の行為が「国際平和と安全への脅威」であるという認識が国際世論であることは確かであろう。つまり、北朝鮮の行為は国際「法(ルール)」を破った行為である、と言う点が問題になっているのである。すべての人間社会は「法」の秩序の下にある。従って個人にしろ団体にしろ、市民にしろ国家にしろ「法」を守るときは平和であり、破るときには争いが生じるのである。
 聖書は霊的な世界における二種類の「法」について教えている。一つは「罪と死との法則」であり、もう一つは「いのちの御霊の法則」である。
Ⅰ.罪と死との法則からの解放 (1~8) まずパウロは「今や、キリストイエスにある者は罪に定められることがない」と宣言している。これは罪と死との法則からの解放を意味するものであり、サタンに対する勝利宣言である。すべての人間はこの地上生活を営む上において、常に「肉と霊。肉の思いと霊の思い。肉に従うことと霊に従うこと」の狭間に生きている。そして多くの場合、罪と死との法則の下にあって敗北の生涯を送っている。ところが神は「御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられた」(3)。それは「律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる」(4)ためであった。「肉によらず霊によって歩く」とは、イエス・キリストに対する信仰を意味している。
Ⅱ.いのちの御霊の法則に生きる (9~11)
 キリスト者は「罪と死との法則」から解放され、「いのちの御霊の法則」に生きる者である。すべてのキリスト者には御霊が宿っておられる。「キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」(9)とある通りである。そこで聖書は「神の御霊があなたがたの内に宿っておられる」ならば、次のように恵みが豊かに与えられていることを教えている。
1)肉におるのではなく、霊におる。(9)
 キリスト者は肉(神に反する思いや行為)とは縁がなく、霊(神を思い、神に従う)のことに深い関心を持つ者である。
2)罪に死んで、義に生きる。(10) 
 ここで言われている「からだ」とは、肉体のことではなく、罪に支配されている古き自己である。「死んでいても」とは、聖なる思いや行為に対する無力さを意味すると共に、「キリストと共なる死」、つまりキリストに対する全き信頼と献身を意味している。そうした状態が「義に生きる」ことにつながるのである。
3)死ぬべきからだも生かされる。(11)
 我らのからだは弱く、粗末なものである。いかに科学が進歩しても寿命には限りがある。しかし幸いなことに、御霊はこのからだを生かして下さる。ここに神癒と栄化の信仰を伺う事ができる。
 「南北戦争中、J・ワイヤットに徴集命令がくだった。彼には妻と六人の子どもがあったので何とか免れたいと願っていた。そこにR・ブラットという若者が彼の身代わりになって行くことを申し出た。彼の申し出はかなえられ、彼はJ・ワイヤットという名前と番号で戦列に加わった。程なくブラットは戦死した。当局は後になって再びJ・ワイヤットを軍籍に入れようとした。しかし彼は、ブラットという人として死んでしまったと異議の申し立てをして、彼は彼がその身代わりであるブラットと一つになって死んだという事実に関する当局の記録を、当局において調べていただきたい、と主張した。やがて、ワイヤットは法の要求以外にあるものとして除外され、以後の服役を免除された。」(「信仰生活における十字架」L・E・マックスエル著)。
 この世にあるキリスト者には様々な戦いがある。しかしそうした戦いに対する勝利の秘訣は内住の御霊である。内住の御霊に対する信仰をしっかりと持って、常にこの御霊を仰ぎ見ながら勝利の人生を歩む者でありたい。