聖 書:ルカ18章15節~17節

(15) イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。(16) するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。(17) よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

 「幼子のような」信仰は救いの基準である。何よりも明確な救いの基準になる。今日の箇所はマタイ18:3-4にもあるし、マルコ10:15にもある。「幼な子のような」信仰を理解するために、小さい子供が使っている単語や行動に関心を持って注目したいのである。
A.「パパ!ママ!」親は絶対的な存在
子供にとってパパとママは絶対的な存在である。
 1.親以外のものはなんでも諦める:子供にとって絶対的なものは一つ、親である。クリスチャンにとって絶対的なものは神様である。
 2.パパは何でも出来ると思っている:何でも頼む。また、本気で楽しみにしながら待っている。父なる神様は心優しいお方で、私たちの祈りに何でも答えて下さる。私たちも子供のように何でも祈り、楽しみにしながら答えを待ちたいのである。
 3.子供は明日の事は全然心配しない:全てを親に委ね、親がやってくれると信じている。明日、必要な物を準備するのは親である。子供ではない。
 4.何でもまねする:親の全てをまねする。子供にとって親は全ての価値観の基準になる。私たちは毎日、主イエス様に似る人として暮らしたいのである。
 5.パパ!ママ!と呼ぶことを楽しむ: 一日何回も呼ぶのである。
B.「ちょうだい!」受けるばかり 
子供はちょうだいの達人である。彼らの生きる唯一の方法である。彼らの独特な生き方でもある。ちょうだいのクライマックスは泣くことである。その例え話がルカ18:1である。子供の生き方は親なしには生きていられない方式である。私たちのクリスチャンが学ぶべき姿がここにある。祈りを通して生きる、祈りを通して神から全てを得る。神様に頼むことによって生きる道が与えられる、これがクリスチャンの正しい生き方である。
C.「抱っこして!」いつも親と一緒
 1.子供は本能的にいつも親のそばにいたいのである。二人の間に他人の存在を絶対認めない。神と私たちの関係においても同じである。神と私たちの間に他の物が入ってはいけない。
 2.親を独占しようとする。時間、場所、親の状況を考えない。親の状況とは関係なしに、親のところにはいつ行っても良い特権が子供にはある。
 3.親と一緒にいるとき、完全を得る。人は神を信じる時、完全になる。神様の部分が満たされないといつまでも、何をしても空虚を感じる。
 救われることは神様に100%依存することを意味する。子供の姿を通して私たちの信仰生活を振り返ってみたいのである。