聖 書:第二コリント5章16節~20節

(16) それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。(17) だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(18) しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。(19) すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。(20) 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。  

多くの人々はもし生まれ変わることができるなら、生まれ変わってみたい、と思っています。それは自分を取り巻く環境や境遇ではなく、自己中心的な罪深い自分に愛想を尽かしているからに他なりません。ですから聖書は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)、「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」(ガラテヤ6:15)と教えているのです。それではどうすれば新しく生まれ変わることができるのでしょうか。聖書は「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(17)と教えています。
Ⅰ.新創造の方法
 「キリストにあるならば」とは、「キリストに結ばれる」(新共同訳)ことを意味しています。キリストは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)と言われました。枝と木は命の関係です。枝は木に結ばれていなければ生きることはできません。私たちも命の源に結ばれていなければ意義深い人生を送ることはできません。生まれ変わるためには、修養や努力ではなく、キリストを信じる以外にはありません。神なるキリストは、人となってこの世に降り、十字架にかかってその道を開いて下さいました。
Ⅱ.新創造の内容
聖書は「すべてが新しくなった」と明言しています。新しく造られたけれども、古いものが残っている、ではありません。「古いものは過ぎ去った」のです。これまでは「肉によって知る」ものでした。それは人種、国籍、家柄、財産、地位、知性などを基準にした物の見方でした。今はそのような知り方ではなく、キリスト中心の生き方です。それまでは大切だと思っていた金、快楽、地位にはもはや魅力はなく、愛、兄弟愛、使命、奉仕などが重要な関心事となったのです。価値観が大きく変わったのです。
Ⅲ.新創造の使命
有史以来世界は、個人レベルでも、民族レベルでも、国家レベルでも、愛憎の悪循環で動いています。それは人間に真の命がないからに他なりません。新創造されたキリスト者には和解の務めが担わされています。私たちはその使命を果たさなくてはなりません。
 シュヴァイツァーは「私は嘘をつかれても赦さなければならない。なぜ
なら私自身も嘘をついたことがあるからだ。愛のない人、私を憎む者、中傷する者、だます者、傲慢な者を赦さなければならない。私自身も愛に欠如し、憎み、中傷し、だまし、傲慢であったからだ」と記しています。
私たちはキリストにあって新創造された者であることを自覚し、悪をもって悪に報いず、全ての人々を赦し、受け入れ、すべての人に対して善を図る者でありたいと願います。