聖書:エレミヤ33章1節~3節

(1) エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時、主の言葉はふたたび彼に臨んだ、(2) 「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、(3) わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。

 「ビジョン」の意味は1)将来の構想、展望、将来を見通す力、洞察力2)視覚、視力、視覚による映像などである。しかし、聖書的なビジョンの意味は神様の計画が人間の祈りと信仰を通して具体的に現れ、成し遂げられていくことである。神様はエレミヤ33章で彼にビジョンを与えて下さった。その「大きな隠されていた」事はダニエルの祈りを通して、エステル、エズラ、ネヘミヤ時代に成就した。国が回復され、神殿とエルサレム城が再建された。神様は私たちの教会に50年前、先輩たちを通してビジョンを与えて下さり、そのビジョンの通りに成し遂げて下さった。神様はこれからも私たちにビジョンを与えて下さり、成し遂げて下さる。
1.人のビジョン 
人には未来への夢とビジョンがある。ビジョンがあるからこそ挑戦する。ところで人が持っているビジョンは変わりやすいものだ。なぜなら、現実の壁を克服するのがとっても難しいからである。エレミヤの現実は宮殿にある監視の庭に監禁されて何も出来なかった。また、人が持っているビジョンは何の根拠もないものもある。現実をあまりにも無視して何の根拠もない虚しい妄想に陥りやすい。人間は妄想とビジョンを勘違いする時がある。イスラエルの民も現実と妄想の区別が付かなくなった。信仰は個人の推測とか執着ではない。神様との深い人格関係に基づいている確信である。イスラエルの民はエレミヤの口から語られる神の声に耳を貸さず、偽りの預言を信じた。「エルサレムは滅びない。神の都だから、神の神殿があるのだから、そこに契約の箱もあるし、神も共に臨在なさるのだから絶対滅びない」と言う虚しい推測と錯覚を信じた。虚しいビジョンは人を滅ぼす。私たちはビジョンを考えるとき、あまりにも現実に執着してもいけないし、反対に現実から完全に離れて、神様も約束していない偽りの妄想を抱いてもいけない。私たちは人間のビジョンではなくて神様から来る神様のビジョンを抱きたい。

2神様のビジョン

 
神様から来るビジョンは神様のビジョンだ。そのビジョンは神様のこれからの計画である。それが人に与えられ、人を通して実行される。神様は素晴らしいみわざを予め計画して、事前に準備して、成就なさるお方だ。計画の段階、準備段階、成就の段階に人を用いる。
エレミヤは33章で監視の庭に監禁されている。兵士が彼を監視している。そのエルサレムはバビロン軍に取り囲まれている。バビロン軍がエルサレムを監視している。しかし、そのバビロン軍は神様のみ手に閉じこめられている。神の預言者はこれらのことを神様の視線で見なくてはならない。神様のビジョンは人間の働きではなくて神様のお働きによって成就する。人間が出来ることはそのビジョンを信じて、待ち望んで、祈り続けることだ。それが、とっても苦しい時間なので涙の時間が多い。呼び求める祈りは神様のビジョンを成し遂げる為に私たちが出来る働きだし、私たちがしなくてはならない中心的な使命だ。厳しい現実と祝福の未来を一つに結ぶことは簡単ではない。信仰と祈りがなければ出来ない。神様は素晴らしい信仰の先輩たちを通して神様のビジョンを実現なさった。私たちも先輩たちが持っていた熱心さ、情熱、全てを惜しみなく主に捧げる心を継承したい。私たちを通して神様のビジョンが完成されるために。