聖 書: ヨハネ19章17節~24節

(17) イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴダ)という場所に出て行かれた。
(18) 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。
(19) ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。
(20) イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。
(21) ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。
(22) ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。
(23) さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。
(24) そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。

 イエスの十字架刑の記事はすべての福音書に記載されています。四福音書ともその分量はほぼ同じくらいですが、その内容はそれぞれ多少の違いがあります。特にヨハネ福音書には共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に見られない記事がいくつか掲載されています。たとえば、罪状書きが三つの国語で記されていたこと、その罪状書きの表現に関してユダヤ人らが修正の抗議をしたこと、十字架上の七言のうちで、共観福音書には記されていない三つの言葉が記されていることなどです。本日はヨハネによる福音書に記載されている内容を中心に、イエスの十字架について黙想することにいたします。
Ⅰ.イエスが背負われた十字架
 ピラトは「イエスを彼らに引き渡し」、「彼らはイエスを引き取った」(16)のでした。その後、「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)
という場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを十字架につけた」(17-18)のです。
「十字架」とは死刑の道具です。死刑に処せられる者が、その道具を背負うということは何という屈辱であり、恥辱であり、苦痛であったことでしょうか。自らの罪に起因するのであればともかく、冤罪ともいうべきこの刑において、イエス自らが背負われたということは、余りにも痛ましい思いを禁じることが出来ません。かつてイサクが自ら薪を背負ってモリヤの山に素直に従って行った姿と二重写しになります。イエスは私たちのために自ら進んで十字架を背負い、ドロローサの道を歩んで下さったのです。
Ⅱ.イエスが架かられた真ん中の十字架
 ゴルゴタの丘には三本の十字架が立てられました。イエスを真ん中にしてその左右に二人の犯罪人が十字架につけられました。ルカはこの二人の犯罪人の運命がイエスに対する態度によって、永遠に、取り返しのつかない方向へと隔てられたことを記しています。またパウロは「十字架によって、二つのものを一つに」(エペソ2:16)する平和の君であるイエスの姿を記しています。今もキリストは様々な関係の中で、様々な状態の中で存在する敵意を排除するために、いつも真ん中に位置して下さるのです。

Ⅲ.イエスが受けられた罪状書きの十字架

イエスの処刑はローマの兵卒によって執行されました。そのことはイエスが宗教的犯罪としてではなく、ローマ政府に対する犯罪として処刑されたことを意味しています。イエスの十字架には「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。ユダヤ人の祭司長たちは「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」(21)と注文をつけましたが、ピラトは「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」(22)と即座に退けました。イエスは確かにユダヤ人の王でありました。そして今もイエスは「世界の王、人類の王」であられます。
Ⅳ.イエスの遺産としての衣 
兵隊たちはイエスを十字架につけてから、イエスが身につけていた上着と下着を分け合いました。上着は四つに分けましたが、下着は縫い目のない一枚織りでしたので、くじ引きにしました。これは「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」(詩篇22:18)という言葉が成就するためでした。この上着は「ほころびのないように」(出エジプト28:32参照)という意味を込めて作られた祭司の着るエポデを想起させます。イエスは確かに大祭司として今も私たちのために執り成しの祈りを捧げて下さっているのです。   
十字架はキリスト教の中心に位置する重要な教理です。それは単なる教理ではなく、イエスが身を以て示された神の愛の結晶です。私たちの信仰生活が真に生き生きとしたものになるか否かは、この十字架理解にかかっていると言っても決して過言ではありません。共にイエスの十字架に肉薄する者とならせて頂きましょう。