聖 書:エペソ人への手紙6章18節~24節

(18) 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
(19) また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
(20) わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(21) わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらうために、主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事を報告するであろう。
(22) 彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるためなのである。
(23) 父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。
(24) 変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。

 オオカミの中に送り出された羊のようである弱々しい私達がサタンと霊的な戦いが出来る理由、鳩のように素直な私達が蛇のような賢い知恵を持って生きるため、乏しいこの世の中で父なる神様からの全能の助けを頂ける方法、これらの答えは祈りです。絶えず祈り、どんな時でもこれらのことが出来ます。ところで、絶えず祈り、どんな時でも祈ることはどうすれば出来ますか。
 今日は祈りに関して考えて見ましょう。
1.絶えず、どんな時でも祈りなさい 
(1) 理由:信者がこの地上で生きる為の唯一の手段が祈りだからです。信者がこの世の中で生きられる手段として神様が与えて下さったものが祈りです。神の子どもがこの地上で唯一頼りにしなければならない生きる方法が祈りです。しかし私達は大体自分の知恵と力を頼りにして生きてきました。人間の努力が強調されると祈りは単なる添加物に過ぎません。私達の祈りがそうです。「どうしても与えて下さい」という切なる祈りが少ないです。そこまで切実ではありません。しかし私達が持っている全ての物が祈りを通して神様が与えて下さったことを悟るとき、私達は絶えず祈り、どんな時でも祈るでしょう。
 (2) 方法:それではどうすれば、絶えず祈り、どんな時でも御霊によって祈ることが出来るのでしょうか。毎日、切実に、他の選択肢がないかのように祈ることです。どんな時でも祈ることはいくら小さいことでも祈ることです。絶えず祈り、どんな時でも御霊によって祈ることは何もしないで二十四時間祈りばかりしなさいではありません。一秒さえあれば私達は全てのことにおいて毎日、切実に祈ることが出来ます。
2.すべての聖徒のために祈りつづけなさい
 私達は祈りだけで生きていかなければなりませんが、しかし一人では長く続けられません。ですから出来る限り互いに祈り合うことが良いです。互いに祈り合うと互いに励みになって長く続けられます。私達はエペソ書から主にあって一つの家族、一つの兄弟姉妹であることを沢山聞きました。エペソ書にある天からの全ての霊的な祝福を隣の兄弟姉妹達と共に祈りによって頂くことはどれほど素晴らしい事でしょうか。私達の周辺には信仰が弱まっている兄弟姉妹が常にいます。彼らの為に祈りましょう。

3.パウロの模範

 絶えず祈り、どんな時でも祈ることに関してパウロが一つの模範を示してくれました。彼は福音の使節ですが、しかし鎖につながれています。何も出来ません。けれども彼は祈りによって語るべき時には大胆に福音を語りました。その理由は兄弟姉妹からの祈りがあったからです。私達の環境は絶えず祈らなくても、どんな時でも祈らなくても何とか間に合うところに住んでいます。神のみ業を体験しにくい環境です。しかし神様はたまに祈りの訓練の為に、祈り以外には解決出来ない環境を通して、私達を訓練なさる時があります。人生の中でとても大変な時には祈りの訓練時間だと思って下さい。神様が私の事をあまりにも愛して下さって、他の人にはない特別な祈りの訓練時間を与えて下さったと思って下さい。
 祈りは私を救って下さった父なる神様の助けだけを頼りにして生きますという信仰告白です。救われ、神の子どもになった人は祈りによって生きなければなりません。絶えず祈り、どんな時でも祈る、兄弟姉妹と互いに祈り合いながら神様のみ業を生々しく体験する人生を生きましょう。