説教題:「受難のキリスト」   中島秀一 師
聖 書:イザヤ53:1~12

(1) だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
(2) 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
(3) 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
(4) まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
(5) しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
(6) われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
(7) 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
(8) 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
(9) 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
(10) しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
(11) 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
(12) それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

宗教と苦行には重要な関係があります。最も厳しいことで有名なのは比叡山延暦寺が行う「千日回峰行」という荒行です。千日といっても連続して3年間という意味ではなく、7年間をかけて通算1000日の間行なわれます。7年間千日で歩く距離は地球1周に匹敵する4万Kmにも及びます。この間には9日間の「断食、断水、不眠、不臥の行」があります。通常、人間が断食・断水状態で生きられる生理的限界は3日間とされていることを考えれば、信じがたいほどの苦行といえるでしょう。普通の僧では出来ません。ですからこの回峰行を達成した僧は大僧正といった高い位につくのです。
キリストの生涯もまた苦難の連続でした。その象徴が「十字架」です。キリストの苦難と仏教の「行」を比較しますと前者が自己目的であるのに比して、後者は他者目的であって、人類救済の苦難であったところに大きな違いを見ることができます。

Ⅰ.肉体的苦難 
イザヤは「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」(5)と預言しています。キリストの肉体的苦難は「十字架刑」によって十分に表されていますが、共観福音書は「いばらの冠を編んでその頭にかぶらせ、・・葦の棒を取りあげてその頭をたたいた」(27:29-30)と記し、ヨハネは「イエスを捕え、縛りあげて・・平手でイエスを打った」(18:12,22)と記しています。イエスご自身の生涯は家畜小屋で誕生され、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)と言われ、更には他人の墓に葬られるほど、この世的な面では肉体的な苦難を甘んじてお受けになりました。

Ⅱ.精神的苦難
イエスは「人となられた神」であります。パウロは「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:2-7)と記しています。清い御国から、罪の世界にこられた事の中に、大きな精神的な苦難を覚えておられたに違いありません。それだけでなく「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(ヨハネ1:11)のです。マタイには「つばきをかけ・嘲弄し・ののしって・十字架からおりてこい」(マタイ27:28.30,39,)とイエスに精神的な苦痛を与えました。

Ⅲ.霊的苦難
人間は「霊と心とからだ」から成り立っています。人間の場合、堕落した存在ですから、その「霊」は非常に鈍感なものになっています。しかし、イエスの場合は正真正銘の霊的存在ですから、その「霊」は鋭敏なものです。それだけにキリストの受難と言えば「霊的苦難」が最たるものであったと言うべきであります。その最高峰はゲッセマネの園において「どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と願われた祈りであり、十字架上において「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:46)という祈りでありました。罪のために永遠の滅びに至る運命にある人間の「霊」を救うために苦しまれた悩みこそ、イエスの最大の受難でありました。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」
(Ⅱコリント5:14-15)