聖 書 使徒行伝 4章12節

この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。

 聖書はイエス・キリスト以外には救われる方法はありませんと言っています。多くの人はこれに対して「どうしてイエスでなければ救われないのですか。キリストだけが救い主だと言い切るのは、あまりにも独善的で排他的ではありませんか。」という疑問を持ちます。救いはキリスト以外にないという理由を考えてみましょう。

1.神が定めたゆるしの法則
 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ3:23)と聖書は言います。ここで言う罪とは盗みや人殺しや詐欺などの犯罪つまり刑事上の罪のことをだけに限っていません。聖書の言わんとする罪とは、「神ご自身の正しさ、きよさからはずれること」です。その意味で、私たち人間は世界中の全ての人は神の目からご覧になれば罪人なのです。救いは人が自身ではどうすることもできないこの罪から救われることです。全ての人は神に対して罪を犯したのですから、罪を赦す主権を持つのは神の方で人間は債務者です。人は神に対して自分の罪のゆるしてもらう方法を、神が決められたように行うべきです。では、神はどのような法則を、人間の罪のゆるしのために定められたのでしょうか。「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル9:22)聖書は、人間の罪のゆるしの法則として、神がまったく罪のないお方の「いのち」を要求されました。

2.イエスは実在した神の御子であった
 罪の代価は誰かが支払い、罪は誰かが受けなければなりません。神の定めた法則によれば、それができる方はご自身にまったく罪のない聖いお方で、罪を犯したことのないお方でなければなりません。釈迦や孔子は確かに偉人ですがそれでも罪ある人間にすぎません。しかしイエス・キリストは違います。イエスは私たちの歴史の中に約二千年前に実在された人物です。証拠は西暦の紀元を表すA.D.はラテン語でanno Dominiですが、その意味は「主の年において」であり、イエス・キリストの生誕から計算しています。キリストの天から来られたのは、神であるキリストが、人なるイエスとなられて世に来られるための神が選ばれた奇跡的な方法でした。それはイエスを処女が聖霊によってみごもることで、人の罪の血統と全く関係絶って世に来られることを可能にされました。ですからこの人による以外に救いはないのです。

3.イエスはまったく罪がなかった
 この世界に罪のない人や罪を犯さない人は一人もいないとされます。ところがイエス・キリストだけは聖人、偉人と誉めそやされた人たちと違いました。彼と三年半身近で暮らした弟子たちはこのように言っています。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」(Ⅰペテロ2:22)、また「彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。」(Ⅰヨハネ3:5)。そうゆうわけで神のご要求に従って、まったく罪のない方が人類に変わって罪の罰を受け、罪の赦しを得るために血を流して、いのちをささげることができるのは、イエスの他には存在しないのです。だから「この人による以外に救はない。」と言い切ることができ、罪がないお方イエスだけが救い主である確固たる根拠になります。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Ⅰコリント5:21)

4.イエスは死からよみがえられた
 「罪のないお方が十字架で死ぬなどということは、あまりにむごすぎます。神はなぜもっと別の方法で救いの道を備えなかったのか」といわれる人はいるでしょう。確かに十字架刑と言うのは、ローマ政府が国家に対する反逆罪や重罪人を処刑するための方法でした。イエスにはまったく罪がなかったのに十字架につけられることは普通では考えられません。しかしこれこそ、神が人類の罪をゆるすためになさった救いの方法だったのです。そこに自分が神のみまえに犯した罪の重さと大きさを知り、それをゆるそうとなさる神の愛の深さと広さを教えられます。イエスは十字架で死なれましたが、三日目に予告通りによみがえられました。イエスは罪の報酬である死を一度は受けられましたが、よみがえられたことによって死に完全に勝利をされました。死は人類最大の敵でありながら、いまだかつてイエスの他には死に勝利した人はいません。イエスの救いを信じる者は永遠のいのちを授かり、死はもはや敵ではなくなりました。ですからイエスによる以外に救いはないのです。