聖書:ピリピ3章17~21
3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
去年8月、二人の教会員が同じ日に召され、連続二日、召天礼拝(葬儀)となった。N姉は長く闘病し、二日前にはご自宅へ病床の姉妹を訪問したが、まだ余裕があると判断し、聖餐を持って再訪する予定だった。
翌週月曜の朝、出先で、I姉が心不全で入院され厳しい状態であると告げられた。まずは教会に戻り待機しようと、大雨で止まっていた電車の運行再開に合わせ、行動開始。
最寄り駅への途中でN姉がいよいよとの連絡を受けて、車中でN姉宅直行を決意。そして、N姉が息を引き取られたと知らされた。N姉宅にいる間にI姉は少し落ち着いているとの連絡を受けたが、帰宅途中に亡くなったことを知った。こんな経験の中で改めてピリピの個所について、思い巡らした。
ピリピ3:17?4:1から次の三つのメッセージを聞きたい。①信仰の模範に倣いなさい(17?19)。②わたしたちの本国は天にあります(20?21)。③主によってしっかりと立ちなさい(4:1)。
第一に、信仰の模範に倣いなさい(17?19)。「私に倣う者となってください」とは私にはとても言えない。そう言えるとしても、私には主にある謙遜が、倣おうとする方も、私を「赦された罪人」として見ていただかなければならない。ある尊敬する方と夕食のときに、温厚なこの方が不機嫌になったのを見たが、この出来事で彼をキリスト者としてまたリーダーとしてさらに尊敬できるようになった。
第二に、私たちの国籍は天にあります(20?21)。キリスト者としての国籍は天にあります。私たちは天に属し、天に帰る者であることを覚えたい。以前牧会していた教会の祈祷会で、ある方が「最近は祝日も教会の集会があって休めない」と言ったが、すかさず一人の方が「私たちは天国に生きているんだよ。この地上では逆立ちして歩いてるんだから、そんなことを言ってはいけません」と指摘された(この方は会津のご出身で、森山諭先生から受洗しておられる)。
「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(20b)ともある。この地上の私たちもすでに天にある歩みをしている。
第3に、主にあって堅く立ってください(4:1)。この年始、86歳の母と過ごした。母は杖代わりにもなるキャリーバッグを持っていた。私たちの人生の杖はなんだろう。「主にあって」とある。「ある」とは、魚が水の中を泳ぎ、鳥が空気の中を飛ぶように、なくてはならないものの中で生きること。「主にある」とは、主イエスなしでは呼吸も、食事も、鼓動も何もできないほどの完全な依存のこと。主イエスのみを信頼して堅く立とう。
キリストを模範とし、天国の価値観に生き、キリストに完全に依存する歩みは、魚や鳥が水や空気の中で生き生きと泳ぎ、飛ぶように、いやそれ以上に、楽しく、豊かなものなのだ。