聖書:詩篇2篇1~12

2:1 なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企むのか。
2:2 なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。主と主に油注がれた者に対して。
2:3 「さあ彼らのかせを打ち砕き彼らの綱を解き捨てよう。」
2:4 天の御座に着いておられる方は笑い主はその者どもを嘲られる。
2:5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ激しく怒って彼らを恐れおののかせる。
2:6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」
2:7 「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。
2:8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。
2:9 あなたは鉄の杖で彼らを牧し陶器師が器を砕くように粉々にする。』」
2:10 それゆえ今王たちよ悟れ。地をさばく者たちよ慎め。
2:11 恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ震え子に口づけせよ。
2:12 主が怒りおまえたちが道で滅びないために。御怒りがすぐにも燃えようとしているからだ。幸いなことよすべて主に身を避ける人は。

昨年の4月から聖書が新しくなり通読の助けとして聖書66巻の緒論を語ってきた。教会暦、クリスマスの説教があり、10月31日のヨブ記以来、今朝は詩篇を取り上げる。

Ⅰ.詩篇と礼拝について
全150篇・5巻に区分される詩篇は重要である。信仰者の神様への賛美、感謝、願い、求め、信仰生活の赤裸々な叫びが記されている。日本の歌である短歌、俳句を外国語で表現するのは難しい。同じように詩篇は詩歌であり原文には韻を踏む箇所、独特の表現法(対句法・並行法が有名)など翻訳で表すのは難しい部分がある。詩篇はソロモン以降の神殿礼拝でも、シナゴグでの礼拝でも用いられた。新約聖書の使徒の時代、初代教会の時代にも引き継がれていく。西方教会(カトリック教会)、東方教会(ギリシャ正教会)に分れても用いられる。宗教改革時のルター、カルヴァンも詩篇を大切にし、プロテスタント各派それぞれの用い方をしていく。詩篇は公同の礼拝のみならず、日々の個人礼拝に恵みを与える。

Ⅱ.王なるキリストを示す
150篇ある詩篇の内から今朝は第2篇が開かれてきた。「聖書66巻のキリスト」(ホッジキン著)のタイトル通りで、詩篇においても中心にあるのはイエス様である。その最初が第2篇である。本編は「王の即位の詩篇」と呼ばれる。「油注がれた者」(2節)はメシア、メサイア(英)である。旧約の時代では王、祭司、預言者の任職に用いられた。この世の王とは違い、神様からの任命を受けた救い主がこの詩篇の中心になる。4~6節にはどの時代にも、現代でも世の王が力を誇っても天上の神様から見れば失笑ものであり、神様の怒りが及べば何の力も無い。聖なる山シオンの王イエス様は、新しい都エルサレムの永遠の王である。7~9節にもイエス様の権威、栄誉が記されている。「あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。」(7節)は使徒13:33、へブル1:5・5:5に引用され、イエス様は神様と一つであること、力も権威も等しいことが旧約、新約聖書を通して強調されている。

Ⅲ.避け所である神様
最後に12節「幸いなことよすべて主に身を避ける人は。」とある。詩篇で「避ける」という言葉は繰り返される。詩篇46:1が有名「神はわれらの避け所また力。」(新聖歌280番「神はわがやぐら」引照箇所)とあり他に、「御翼の陰に身を避けます。」詩篇36:7・57:1・61:4ともある。神様は私たちに時に戦えと命じ、時にかくまわれることもある。前に出ることだけではなく、退いて休むことも必要である。今でも続くユダヤ人の祭の中で、過越しの祭はエジプトでの虐殺を免れたことから、プリムの祭はペルシャでの虐殺を免れたことから祭事として続けられている。救いは一人一人になされ、群れの内にもなされていく。王であるイエス様は私たちのために戦い、御体をもってかくまってくださる。

神様は私たちを守られ、助けられ、救われる御方であることは詩篇を通じ、聖書全体を通じて表されている。大いなる御方にどんな時でも信頼し続けよう。