聖書:伝道者の書1:1~18  聖書各巻緒論(21)

1:1 エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
1:4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。
1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。
1:8 すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。
1:9 昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。
1:11 前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。
1:12 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
1:13 私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。
1:14 私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。
1:15 曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。
1:16 私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
1:17 私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。
1:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。

聖書各巻の緒論として前回の箴言に続いて伝道者の書を開く。伝道者の書はヨブ記、詩篇の一部と共に知恵文学である。伝道者(コーヘレス)という言葉は集会を招集する者という意味である。私たちは伝道者と言うとビリー・グラハムのようなエヴァンジェリストを想像しやすいが、会衆に知恵を語る者という意味合いになる。

Ⅰ.この世は空の空なのか
1節「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。」とある。異論はあるが、ソロモンを指している。「空の空。すべては空。」の書き出しがこの書を表している。旧約聖書編集の際に伝道者の書を正典に入れるかは、虚無主義・ニヒリズムから反論もあった。日本人は「空」という言葉に共感するのではないか。平家物語の冒頭「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」、方丈記の冒頭「ゆく川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」は政治的な混乱、天変地異も続いた鎌倉時代の作になる。日本人的な無常観を表わす。本書の「空の空。すべては空。」はもっと根源的な空しさを表している。

Ⅱ.伝道者の探求
伝道者ソロモンは、神様からの偉大な知恵と知識を用い、神様からの絶大な財産を使って人生の意義を求めることができた。全てを極めたソロモンが人生を論ずることに深い意味がある。どんな「知恵と知識」も全てを満たすものではない(1:16~18)。人が求める「快楽」も空しいものである(2:1~2)。人間の基本的な欲望は生存のために神様が備えられた。正しく用いることは善いことであるが、貪ることは悪である。しかし満たされることはない。「労苦と思い煩い」は報われない(2:22~23)。空しものである。人は動物と同じだとまで伝道者は言う(3:19)。この世の虐げ、不公正は目に余るものがある(4:1~3)。この世の暴虐や混乱、無意味さが繰り返し記されている。伝道者はこれらの解決を見出そうとし、少しは回答を持つが根本的なものではない。

Ⅲ.伝道者の結論
最後のくだりになる12:11~14に短い結論が記される。ここまで否定的、悲観的な言葉が連ねられてきた。この世の成功、栄誉、祝福は良いものであるが目的にするならば空しい。結論は12:13以降に記される神様を崇め、神様に従い日々を歩むことにある。神様の時に叶う賢い歩みである(3:1~8「時」参照)。見える状態、結果に表わされること以上にその人の思い、隠れた姿、行いが問われる。神様に従っているのなら、目に見えるものに左右されずに、神様の前に心安んじることができる。神様の前に立つやがての日にも、はばかることなく立ちうる。

私たちはこの世の価値基準に生きているがそれだけでは空しい。御国の価値基準に生き、神様の前に誠実に歩み続けよう(ペテロ第二1:3~11)。