聖書箇所:ヨブ40:1~14

40:1 主はヨブに答えられた。
40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。
40:3 ヨブは主に答えた。
40:4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
40:5 一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。
40:6 主は嵐の中からヨブに答えられた。
40:7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
40:8 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。
40:9 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。
40:10 さあ、誉れと気高さで身を飾り、威厳と威光を身にまとえ。
40:11 あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。
40:12 すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。
40:13 彼らをともに土のちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。
40:14 そうすれば、わたしもあなたをたたえて言う。「あなたの右の手は自分を救うことができる」と。

今日は9月第一聖日、振起日を迎えた。夏が終わり、信仰的・霊的にも実りの秋に向かって新しく踏み出そうという意味合いがある。残暑はしばらく続くだろうが、私たちは新たな思いを持って進もう。

Ⅰ.神様は開かれている
神様ご自身に目を向ける。私たちは神様を受け止め、信じ、従っている。人間同士でも時に相手をどれだけ分かっているだろうかと思うことがある。私たちは神様をどれだけ理解しているだろうか。人間でも分かり得ないのなら、偉大な神様を知るのは無理だと思うべきなのか。
聖書の神様はご自分を表される御方である。神様はご自分が造られた自然を通して語られる「天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す」(詩篇19:1・2)。イエス様を通して証しされた「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(へブル1:2)。御言(聖書)によって語られている「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
神様の側ではご自分を示してくださっており、私たちが神様を知ろうと求めてくるのを待っておられる。

Ⅱ.人は求めている
神様に求める人は聖書の中にたくさん出てくる。ヨブも切実に神様に訴えた。聖書でもかなり古い時代に属し実在の話であるが、知恵文学として教えとまとまりがある。ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」(1:1)、「東の人々の中で一番の有力者であった。」(1:3)。この神様の祝福について、サタンは神様からヨブの信仰を試みる許可を得る。最初に子どもたちと財産が奪われるが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)とヨブは揺るがない。次にサタンは神様からヨブの肉体を打つ許可を得る。ヨブの全身に悪性の腫瘍が生じた。ヨブの悲劇に3人の友人が慰めに来る。3人はヨブと対話を始めるがヨブの悲惨な姿から、神様に罪を犯した報いだと非難する。ヨブは身に覚えがなく、自分の正しさを主張する。議論は平行線をたどり、最後に4人目のエリフが神様の偉大さを語った後に、神様ご自身が答えられた。
圧倒的な神様の顕れに対してヨブは自分の正しさ、自分の知識を恥じ、ただひれ伏した。神様はヨブの誠実さ、切なる求めをご存知であり、悔い改めを受け入れられ、回復の恵みを表された。

Ⅲ.新たな思いで求める
ヨブの時代、旧約聖書は編纂されていなかった。救い主イエス様は示されていても遠い幻のような存在であった。ヨブの財産は失われ、子どもは奪われ、肉体の痛みに苛まれ、友人から厳しい裁きを受ける。痛ましさの中で、ヨブは神様を求め続ける。神様への信仰に生きるという信念は揺るがない、何と強い信仰であったか。またヨブの信仰の深さを神様はご存知であり、信頼されていたからこそ、サタンの手にヨブを委ねられた。

私たちの信仰は弱く、吹き消されやすいものかも知れない。神様は私たちの信仰をご存知で私たちにも訓練を施される。私たちの信仰も直ぐなもの、潔いもの、正しいものとして導かれよう。