説 教 題:「祝福が分かち合われる」 井上義実師
聖書箇所:ルカ24:25~35
24:25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
24:33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
24:35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
今日は世界聖餐日礼拝になる。世界聖餐日は1930年代アメリカの長老教会から始まった。この時代、全体主義、権威主義が興り、民族の抑圧、他国への侵略、戦争が始まろうとしていた。世界聖餐日はこの時代への危機感があったと言われる。
礼拝で語られる説教は「目に見えない神の言葉」、礼拝で執り行われる聖礼典(洗礼と聖餐)は「目に見える神の言葉」と言われる。神の言葉はこの世の言葉ではない命の言葉、真理の言葉、愛の言葉である。説教と聖餐によって神様の言葉が持つ命、真理、愛に与ることができる。今日は世界全体の教会が神様の言葉の恵みに同時に与ろう、一つとなろうという日である。
Ⅰ.分断、分裂、分散に向かう
エマオの途上の記事になる。イエス様が十字架で死なれて3日目。安息日が明けて2人の弟子がエルサレムからそう遠くないエマオの村に向かっていた。過越しの祭が終わった、穏やかな美しい春の日だっただろう。
この2人の弟子は自分たちの思いに沈んでいた。素晴らしい、愛するイエス様が残酷な十字架に架けられて亡くなられた。自分たちの希望はイエス様にあった。悲しくて辛い、残念で悔しい、空しい思いではなかったでしょうか。自分たちの考えから抜け出せないでいた。イエス様が力ある奇跡を行われ、人を揺り動かす言葉を語られたが、死んでしまったらお終いである。エルサレムにいても仕方ない、反対者たちがいて危ない。早く逃げ出そう。
イエス様の元に一つであった弟子たちが、人間の思いと考えによって、散りじりばらばらになってしまう危機にあった。実際にそのことが起こっているのがこの記事になる。
Ⅱ.一致、統一、集合に向かう
そこに、イエス様であられるのに彼らは気づかない、見知らぬ旅人が追いつく。何を話しているのかということから3人の会話が始まる。イエス様は共に歩まれながら、ご自分に関わる預言の言葉、旧約聖書全体のご自分に関わる証しを語られた。イエス様の御言の説き明かしは本当に素晴らしいものであっただろう。
夕方にエマオの村に着いた。旅人はなお先に進もうとしていた。2人の弟子はこの方を強く引き留めた。夕食の食卓で、旅人がパンを取り、神様を賛美し、裂いて分かつ姿を見てようやくイエス様だと気づいた。
イエス様による御言の説き明かしを聞くこと、イエス様に側にいてくださいと強く願うこと、イエス様と食事を共にすること、イエス様と共に食物を分かち賛美し神様をたたえること、これらによって心の目が開かれ、霊的な真実を知ることができる。
イエス様の御働きによってばらばらに向かう者が一つにされる記事である。
Ⅲ.この世に遣わされる
散っていこうとする者たちが一つにされるできごとは、イエス様が共にあって、御言が説き明かされること、パンが裂かれる食卓に着くことによってであった。それは、今日、教会の働きとして、礼拝で御言が語られ、聖餐が共にされることである。
弟子たちはイエス様だとようやく気づいて、御言によって心燃やされたこと、パンが裂かれる食卓で真理に目が開かれたことを確かめ合った。立ち上がってエルサレムへと戻っていった。もうエルサレムに用はない、危険を冒すつもりはないと見限っていた町へ、弟子たちの交わりの中へと戻っていった。戦いや困難が待ち受けている、そこに自分たちの使命があるという確信をいただいた。分断ではなく一致、分裂ではなく統一、分散ではなく集合に導かれた。イエス様によって正しい道へと引き戻され、自分たちの使命を確認した姿である。
私たちは自分の思いと考えに引き込まれて神様から離れてしまうことがある。イエス様は近づいてくださり、共に歩み、語りかけ、魂にも身体にも力を与えてくださる。私たちの生活の場へと遣わしてくださる。教会の礼拝にあって、御言と聖餐の分かち合いを私たちは続けていく、天に向かう旅路である。