御国が近づいている⑫
聖書箇所:ローマ8:31~39

8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
8:33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
8:35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
8:37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
8:39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

今の時代を受け止める時に、主イエス様が再び来られる再臨、世界が新たにされる終末が近づいていることを覚えます。「御国が近づいている」というテーマも12回目になります。

Ⅰ.苦難を受け止めること
先月9月19日の再臨教理セミナーで、黙示録に詳しい岡山英雄師の講演をいただきました。総合的、俯瞰的に語ってくださり、私も改めて、考え方、受け止め方が明瞭にされて良い講演会でした。現在も荻窪栄光教会のYouTubeで視聴いただけます。イエス様の再臨と終末について、歴史的にも、現在でも多くの考え方があります。詳しくは省きますが、患難期、千年期がいつになるのか、どのような形になるのかなどが、一番受け止め方の幅が大きいです。
最近の私たちの福音派内に、患難期は無いとする考え方が入り込もうとしています。イエス様がマタイ福音書24章で弟子たちに語られた終わりの時のしるしは患難を表しています。その時には、偽キリスト、戦争、飢饉、地震、迫害、裏切り、偽預言者、不法、愛が冷えるという事態が起こると言われました。終末の預言であるヨハネ黙示録は激しい災いや、大きな悪との戦いといった、正しく患難が記されています。
今回、患難期が無いとする考え方の説明を受けました。それらの方々からは違うと言われるでしょうが、神学的な考察からではなく、感情的な部分から認めないのですか、とさえ私には思えました。イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)と言われています。岡山師は終末には苦難があることを受け止めること、苦難の先にこそ勝利と希望があることを話されました。苦難、患難を抜きにして神様の栄光は無いのです。

Ⅱ.苦難を超えていくこと
神様を信じていく中で苦難があるとすれば、神様はどんな答えを苦難に対して用意されているのでしょうか。今日の箇所にも苦難は出てきます。35節には、苦難・苦悩(この世のさまざまな苦しみ)、迫害(神様を信じることによる宗教的な圧迫)、飢え(肉体そのものを脅かす不足)、裸(神様を信じることによる恥ずかしめ)、危険・剣(肉体的、生命的な危機)が出てきます。
さらに、33節には誰が訴えるのかと問われていますが、聖書で神の民を訴える者は悪魔です「昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされた」(黙示録12:10)。悪魔は私たちを罪ありとののしり、私たちの信仰を揺さぶろうと試みます(34節)。この箇所には多くの苦難の実例が出て来ています。
私たちに迫るあらゆる苦難に対して、神様は答えてくださっています。神様は私たちを愛して、御子イエス様を十字架の死に渡してくださいました。イエス様の贖いの死によって、私たちの罪を赦して、義と認めてくださっています。救い主であるイエス様は、よみがえって、天に挙げられ、私たちのためにいつも神様にとりなしてくださっています。この無限の愛によって私たちは守られているのです。私たちが守られている基盤、証拠はイエス様の十字架にあります。
苦難がどんなに襲いかかってきても、私は神様に贖われた神の子ですと叫ぶことができます。1521年、M.ルターは自分を異端として審問するヴォルムス帝国議会に向かいます。その時に「たとえヴォルムスに屋根瓦ほどの数多くの悪魔がいようとも、私はそこへ入っていくつもりである。」と言いました。帝国議会では異端として破門され、死刑判決を受けましたが、帰路、支持者によって、ヴァルトブルク城にかくまわれました。M.ルターは神経症的な弱さを持っていましたが、信仰を持って、苦難に立ち向かっていきました。神様はその時々に、私たちにも必要な助けを起こしていかれる御方です。

Ⅲ.苦難から勝利へ
どんな苦難、患難があったとしても私たちは神様の愛に守られています「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。」(35節)。この問いかけに対して、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(8:38・39)との信仰告白が記されています。何と力強い宣言ではないでしょうか。どんなに悪しきものも、どんなに素晴らしいものも、私たちと神様との結びつきを損なうものはないのです。
この上で、神様にあって、「私たちは圧倒的な勝利者です。」(37節)、「勝ち得て余りがある」(同・口語訳)のです。私たちは苦難、患難に打ちひしがれることも、恐れて逃げ出すこともありません。神様の元に立ち続けるならば、確かな道が開かれていくのです。
黙示録には神様の最終的な勝利が描かれていますが、イエス様を救い主として信じる私たちもこの勝利につながっていることが記されています。「わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。」(黙示録3:12)。ここにはイエス様にある者は、神様の名が記されるとあります。また、その後に、「また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。」(黙示録14:1)ともあります。私たちは神様の名前を身に帯びる者、身に着ける者なのです。
Cf.最近、若い方たちを中心にタトゥーを入れている人たちを見かけて驚きます。昔は堅気の人と、その筋の人を見分けるものの一つでした。ファッションのように思っている若者たちと年齢のギャップを感じます。私たちが身体に帯びている神様の名前は人の目には見えません。それを見分けることができるのは、恐らく神様と悪魔ではないでしょうか。私たちを守ろうとする御方は、私たちを打ち消そうとするものと戦ってくださっているのです。神様は悪しきものに勝利し、やがては滅ぼされる御方です。

私たちは苦難、患難に出会います。苦しみや痛みの中を通されることもあります。しかし、恐れることはありません。やがて私たちは神様と共に勝利者となります。勝利の道をイエス様と共に歩んでいこうではありませんか。