聖書箇所:マタイ9:18~25
9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。
9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。
9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。
9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
イエス様の周りには多くの人であふれていた。マタイ4:23にイエス様の働きは、教え、福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されたとある。人々はそれぞれにイエス様に願い、求めを持って集まってきていた。この箇所と同じ話は他の福音書では、マルコ5:21から、ルカ8:41からも記されており、3個所を合わせて話したい。
Ⅰ.娘を亡くしたヤイロの苦しみ
会堂を管理する会堂司ヤイロがイエス様の元にやってきた。他の福音書ではヤイロの一人娘は死にかけていたとあるが、マタイでは死んでいるとある。何と大きな悲しみであろうか。まだ幼いと言える娘を先に天に送った両親の心の痛みを思う。私たちは子どもより親が先に亡くなるものと人生を捉えている。自然の理はそうだが、どんなことも起こる、起こってはいけないことが起こるのが私たちの人生でもある。そこに大きな苦しみや痛みが引き起こされていく。ヤイロの言葉から、イエス様はヤイロの家に出かけられる。
Ⅱ.病気の女性の苦しみ
ヤイロの家に行く間にも人々はイエス様に押し寄せてくる。周りの多くの人の中に一人の女性がいた。彼女は12年間婦人科の病気に苦しんできた。医者にかかっても誰も治せず、その治療に財産も使い果たしてしまった。今なら理不尽なことと誰もが思うが、イスラエルの教えでは血の流失は汚れた病気とされていた。結婚していたなら離婚させられており、独身であれば結婚できなかった。彼女は分からないようにイエス様に後ろから近づいて行った。信仰を持ってイエス様の前に出ないのかと思われるだろうか。汚れている人は他の人に触れてはいけないとされており、彼女は人混みにいてはいけなかった。彼女の持つ苦しみは経済的、精神的、社会的な苦しみが重なり合っており、孤独でもあった。
Ⅲ.苦しみに答えられるイエス様
イエス様は多くの人々が押し寄せる中で、病気の女性が無言であっても、その願いに心を止めておられた。イエス様の衣に触れた人は多かっただろうが、病気の女性の手が触れたことはイエス様は直ぐに分かられた。衣に触れたその時に女性の病気は癒された。病気の女性は衣に触れさえすれば、癒されるという信仰を持っていた。イエス様はこの女性の信仰を認め、安心して行きなさい、健やかでいなさいとおっしゃった(マルコ5:34)。
イエス様はヤイロの家に着かれた。娘は亡くなっていたので、当時の風習から笛を吹いたり、泣き女と呼ばれる人たちがいて騒々しかった。イエス様は娘が眠っているだけだと語られた。人々はイエス様をあざけったが、イエス様は娘の手を取り「タリタ、クム。」「少女よ、起きなさい」(マルコ5:41)と言われるとすぐに起き上がった。ヤイロはイエス様なら娘を生き返らせることができるという信仰を持って、イエス様を迎えに行った。
この時、イエス様の周囲の多くの人々に痛みや苦しみがあっただろう。イエス様が心に止められ、御業を起こされたのはヤイロの娘、病気の女性であった。それは、ヤイロの内にあった信仰、病気の女性の内にあった信仰によって御業がなされたのである。
私たちは人生の苦しみに会う、自分が引き起こしたものも、突然降りかかってきたものも、様々なことがらに出会う。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではないか。」(ヨハネ11:40)とイエス様は言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)とのイエス様のヤイロへの言葉はその只中にいる私たちにも語られている。