聖日礼拝説教要旨‘25.5.25
2025年度教団聖句Ⅱ
聖書箇所:ペテロの手紙第一2:6~12
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
2:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
5月の第一週は2025年度の旧約聖書からの教団聖句を開いた。ヨシュア5:14は今の教団の状況から将来に向かってである。今日は2025年度の新約聖書からの教団聖句を開く。ペテロ第一2:9は今ある私たちの信仰の恵みを確認しよう。
教会には2つの力が働いている。一つは、世の中から呼び集められて一つとする力が働いている。礼拝は私たちが神様の元に集められて主の力をいただく場である。もう一つは、世の中へと遣わされていく力が働いている。私たちの日常生活はそれぞれの持ち場、立場に立っている。ペテロの手紙は最初に、「散って寄留している」(1:1)とあるように、個別に遣わされて世にある信仰者への励ましの手紙である。
Ⅰ.神の民の土台
この箇所の前半は建物の土台石のことが出てくる。この石はイエス様に他ならない。この石は捨てられたとあるように、イエス様は世から捨てられて十字架の死を受けてくださった。これは詩篇118:22に語られており、イエス様も十字架の前にご自分のことを指していると言われた(マタイ21:42)。このことからもイエス様の十字架の死による贖いが神様の周到な救いの計画、準備の中でなされたかが分かる。
神様は全ての人の救いを開いてくださったが、この石を信じて尊ぶか、信じないでこの石につまずくか、人はどちらかを選ぶことになる。金は古来、高価で尊く純度を見分けるために試金石が編み出されたが、救いの石であるイエス様は、人の救いの試金石である。
イエス様を救い主と信じる心こそが大切である「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:11・12)。私たちはイエス様の救いを信じ、永遠の救いの石であるイエス様を土台としよう。
Ⅱ.神の民の恵み
救いの石であるイエス様を信じて救いの恵みに与る。神様の救いによって何がなされるか、どう変わるのか。一言で言えば神の民とされる。旧約聖書で神の民はイスラエル民族だけであったが、今はイエス様の十字架の救いによって全ての人に恵みは及んでいる。
神の民とされることは、
「選ばれた種族」(「わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」イザヤ43:20)とされる。
「王である祭司」「聖なる国民」この2つは(「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」出エジプト19:6)とされる。
「神のものとされた民」(「彼らは、わたしのものとなる」マラキ3:17)とされるのである。
神の民とされたことは、「闇の中から、…驚くべき光の中に召してくださった」ことでもある。1)聖書は神様による天地万物の創造から始まる。最初に茫漠とした闇から光が生まれた(創世記1:1)。2)神様の救いの歴史はイエス様が地上にお生まれくださったことで、私たちの心は闇から光に変えられた(ヨハネ1:9)。3)終末がますます近づく時代になった。闇や悪が支配し、戦いの多い時代である。その中で私たちは光をいただき、光を掲げて生きる者である(「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」テサロニケ第一5:5・6)。イエス様の救いに与って、神様の光に生きる者こそ最も大きな恵みに生きる者である。
Ⅲ.神の民の生き方
神の民とされた大きな恵みを覚えて、私たちは神の民としてどのように生きるのか。旅人、寄留者だと聖書は語る。神の民にとって地上の生活は過ぎ行くものであり、本来あるものは天上の生活である。神様の御国こそが本国、本籍地である。この地上で神様の愛、神様の真実、神様の栄光を表わす。不要な肉欲を避け、立派にふるまいなさいと勧められている。この世で良い市民として道徳的に、人格的に生きることは大切である。そのことだけを意味しているのだろうか。「神の訪れの日に神をあがめるようになります」(12節)とあり、私たちが良い行いで評価されるのではなく、神様が崇められることを目指していく者なのである。崇めると訳される言葉は複数ある。よく用いられる主なものは、聖なるものとする、大きくする、栄光あるものとするという意味から生まれている。私たちが賛美し、喜び、大きくするものは神様しかない。
ペテロの手紙は終わりの時を意識して記されている。これからさらに闇や悪との戦いや困難が起こる。イエス様の贖いによって神の民とされ、その恵みに与っている者として、戦いの中もただ神様を崇める者として生きて行こう。