聖日礼拝説教要旨‘25.6.1
ビジョン2025・聖句Ⅰ

聖書箇所:使徒の働き1:3~11

1:3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
1:7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

5月には2025年度の教団聖句を開いたが、続いて教会ビジョン2025の聖句を開く。ビジョン2025の文言は「神への賛美にあふれ、聖霊によって励ましあい、主の愛に導く教会」である。今日は使徒の働き1章になるが次週はペンテコステ礼拝につながっていく。

Ⅰ.祈りによって聖霊が降る
イエス様は私たちの罪を身に負って十字架で死なれたが、3日後によみがえって私たちの救いの道を開かれた。40日にわたって復活の姿を弟子たち、信徒たちに表され、神様のメッセージを語られた。ここは、イエス様が天に帰られる記事になる。
教会の始まりを考えるとこの所がスタート地点の手前、スタートの号砲が鳴る前の直前の時に当たる。聖霊が降るという神様の御業がなされなければ教会は生まれなかった。イエス様が十字架にかかられる前に聖霊の約束を繰り返し語られた(ヨハネ14~16章)。弟子たちと引き離される最後の時に最も大切な使信として約束されていた。
天に帰られるイエス様は「聖霊のバプテスマ」(5節)と呼ばれた。ここに条件は付けられてはおらず、誰でもイエス様にあるならばと言える。必要なことはここで弟子たちがそうであったように、聖霊を求めて祈ること、祈りの中で心砕かれることである。弟子たちはイエス様が捕えられる直前でも誰が偉いのかと言い合い、イエス様が捕えられると皆が逃げ出した。自己中心であり、身勝手な彼らは自分たちの醜さ、愚かさに気づく必要があった。神様への悔い改めや、互いの赦し合いに導かれた。心や思い、内なるものがきよめられ整えられなければならなかった。
私たちも同様に祈りに導かれ、自らの姿を示していただく必要がある。聖霊は私たちに愛、真理、潔さ、平安、自由、暖かさ、明るさ、穏やかさ… あらゆる神様からの良い賜物を与えうる。神様の前に自らの不足を求めよう。

Ⅱ.力を受けて証人となる
イエス様が共におられた頃の弟子たち、イエス様が十字架にかかられた後の弟子たちの姿を見ると、とても神様の働きを担える状態にはなかった。弟子たちが、イエス様が無抵抗で、十字架で殺されてしまったことに、恐れや不安を持ち、心痛めていたことは分かる。弟子たちはつまずいてしまう信仰の弱さを持ち、イエス様を見捨ててしまう心の脆さを持っていた。
それは、人間的な限界ではないだろうか。人間の力に大小はあるが、誰にも限りはあり、やがて力尽きてしまう。人間の力に依存するのではなく、神様の力にこそ寄り頼むべきである。聖霊が臨んで力を受ける(8節)とある。神様の力が臨むのであれば、そこに限りはない。その力は神様の御業がなされていくために、私たちを超えてあらゆる形で働いていく。神様の恵みが表されていく。
私にはできませんという所から、神様は御業を見させてくださることができる。弱い、脆い弟子たちが、地の果てまでイエス様の救いの恵みの証人となっていった。彼らは喜んでイエス様が救い主であることを証しし始めた。聖霊は宣教の力を私たちにも与え、私たちをも遣わしてくださる。

Ⅲ.再臨の日まで宣べ伝える
オリーブ山からイエス様は天に帰って行かれた。天使は弟子たちにやがて再び同じ姿で帰ってこられることを告げた。信仰者の働き、教会の働きはイエス様が再び来られる日まで続けられる。永遠にではなく、時間は限られている。私たちは与えられた時間を、聖霊の力によって神様の御業のために用いよう。
ある先生は、イエス様が地上におられた時は、Holy spirit in Jesus.であると言われた。キリストの内に聖霊は働かれる。イエス様の公生涯の始めにヨルダン川でのバプテスマの際に聖霊が鳩のように降ったとある。イエス様は聖霊の力と愛によって神様の業を進められた。次に、イエス様が天に帰られると、Jesus in holy spirit.であると言われた。聖霊の内にイエス様は働かれる。今の私たちの時代を指している。イエス様は私たちの内に住まわれ、私たちの外にも導き手、守り手として立たれている。私たちに対する聖霊の働きも、イエス様の働きも同格、同等であり同時であるが、イエス様は最後の説教では聖霊の働きを強調されている。
この終わりの時代にこそ、悪を打ち砕き、闇を照らす、神様の愛と義と聖を表す聖霊の働きが必要である。私たちを揺り動かし、御心に生かす聖霊の働きを心から求めて行こう。

私たちは共に、今も豊かに注がれている聖霊によってイエス様の愛を証しし、教会の働きを進めていこう。聖霊による実が結ばれ、神様の栄光が表されていく。